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世界は優しい。
世界は厳しい。
不変のように存在しているけれど、それが幾つもの顔を持っていることを誰もが知っている。
そして。
これはそんな世界の顔の一つ。
残酷な思い出の断片。
誰も逆らえない運命の結末。
少年の記憶と少女の記録。
【.hack//Hydrangea】
Login_Error 接続少女と孤高の少年(後編)
「なぁ、一つ聞いてもいいか?」
「なに?」
久しぶりに二人だけで出かけた冒険先で、ハイドは尋ねた。
「なんでそんなに俺のメンバーアドレス欲しがるんだ?」
出会ってからこれまでアゲハは機会あるたびにメンバーアドレスの交換を、ハイドに提案していた。その口調は気が向いたらという感じで押し付けるようなものではなかったが、それでも言い出した回数は限りなく多い。
まるでそうしなければならないかのように、彼女はハイドとのメンバーアドレスの交換を提案していた。いや、ハイドだけではなく、彼が知る限り彼女が知り合った人全てとのメンバーアドレスを交換していた。
まるで繋がりを求めているかのように。
「欲しいから?」
ハイドの言葉に、小首を傾げて茶化すように答えるアゲハ。
「本当にそれだけなのか?」
その様子を少しだけ半眼になった目つきでハイドが見る。
真剣な眼差しと口調に少しだけアゲハは怯んだように言葉を止めて。
「ごめん、うそ」
と告げた。
「嘘?」
「……欲しいだけじゃないから。いや、欲しいっていうことで合ってるのかな?欲しい。求めてる。必要。ないと駄目。いや、依存している? 違う違う違う、もっといい言葉があるはず……」
考えるように、まるで吐き出す言葉を考えるように、ブツブツとアゲハは単語だけの独り言を洩らした。
「おい?」
単語の羅列のように言葉を吐き出し、ログを刻み続けるアゲハに少しだけ心配になって声を掛けると。
「そうだね、こういうべきかな」
「なにが?」
「メンバーアドレスが欲しい理由」
そう告げて、アゲハは足を踏み出す。
始めて一緒に言ったエリアと同じ晴れ渡った草原の中に足を踏み出して、楽しげにサクリと音を立てる草花にアゲハが笑った。
「ねえハイド。この世界って広いよね」
「……え?」
「現実から見れば箱庭のように小さな世界だけど、中から見ればどこまでも広がっている世界」
ザァッと一定タイミングで吹く風のエフェクトに草原が揺れて、アゲハの白いローブがまるで蝶の羽のように揺らめいた。
「私はこの世界がとても好きだよ」
「俺も好きだな」
アゲハの言葉に同意するように、ハイドもそう告げた。
好きだ。
ただこの虚構と電子で構成されただけの仮想世界であっても、ハイドにとってそれはかけがえのない思い出と居場所を持った世界だから。
その心には偽りはなかった。
「それでね。私はここで生きている……そう生きている人が好きなの。善人でも、悪人でも、綺麗な心を持っていても、汚い心をもっていても、例えPKという形でしか関われないような人でも、わたしは大好きなの」
そう告げて、アゲハはハイドに振り返った。
「実はね、ハイドに会う少し前にね。私、PKされたの」
「は?」
「本当に初めてログインしてね。親切そうな人だったから一緒に冒険に行ったの。ハイドも知っての通り、私操作苦手だからね、その人途中からいらいらしてきたの」
だから、ダンジョンの奥でキルされた。
だから暗いダンジョンは嫌いなのとそう彼女は告げた。
「むかつく、とか。死ねとかいわれてね、ばっさり斬られちゃってゴーストになっちゃったの。ゴーストになった後でもへたくそとか、やる資格ねえよとか、色々怒られちゃったよ」
「それは……」
その内容に、ハイドは絶句した。
PKをする奴には何度も遭遇している。PKを返り討ちにしたこともあるし、PKされて傷ついた人もハイドは少なからず知っていた。
知っていたとしても気分はよくないし、どうしょうもなくショックな内容。
「けどね、私はそれでも嬉しかったの」
「え?」
「私は罵倒した人は、私をPKした人は私を見てくれた。構ってくれたんだよ。無視されたんじゃないんだよ」
そういうアゲハの言葉は本当に嬉しそうで、ハイドは戸惑った。
そして思う。
彼女のリアルはどんなのだったのかと、少しだけ考える。
けれども、そんな間にも彼女の言葉は進む。
「でも私は別にMとかじゃないから、進んでPKされる気は無かったの。だから、今度はもっと優しい人を探したんだ」
「それが……俺か?」
「うん。君に優しくされて一杯感謝している人が居たから、こんな私でも優しくしてもらえるかなって思って」
確かにハイドは何度も初心者サポートやPKからPCを助けたことがある。
偶にタウンやエリアで見かけたら楽しげに会話を交わすぐらいだ。
「……幻滅した?」
「そんなわけない。自分が頼られて嬉しくないわけがないだろ?」
純粋に自分を信じてくれたのなら出来るだけ応えたいとは思う。例え打算だったとしても押し付けじゃなく、ただ自分という存在を信用してくれた結果なのだから。
「そっか。それならよかった」
本当に安心したように、彼女は少しだけ会話を止めた。
長話で疲れたように、少しだけ遅れた口調で言葉が告げられる。
「それでね。私は欲しかったの」
「なにが?」
「人との絆――接続した証が」
接続?
奇妙な言い回しにハイドが眉を潜め、それでもアゲハは気付いていないように告げる。
「知ってる? 人ってね一人だと単なる点なんだよ。ポツンと淋しく書かれた点、それがね他の人と知り合うことによって線になり、一杯知り合いが出来ると網……つまり世界になるの」
その言葉の内容はまるで呪文のようだった。
詳細は分からずとも意味だけが分かる、そんな言葉。
「私はね。誰かと接続したかったの、ブツブツと繋がりが切り離されて、またたった一人の点になるのが怖いの。誰にも知られないで消えていくのが怖いの、誰にも構われない、誰からも話されない、誰とも話せない孤独は……いやなの」
その言葉はまるで血を吐くようだった。
彼女特有の棒読みのような口調から発せられる言葉は、どこまでも淡々としているからこそ恐ろしく感じた。
「孤独は辛いよ」
その言葉はハイドに向けられていた。
「孤立は死にたくなるよ」
その目はハイドに向けられていた。
「孤高なんて……寂しいに決まってる」
それは断言するような文面だったが、その口調には実感が伴っていた。
「だから……俺のメンバーアドレスを求めたのか?」
同じ境遇だと思って、同じ地獄から救い上げたくて。
彼女はハイドに会いに来たのだと、そう思えた。
「でも、君は一人じゃなかったから必要なかったみたいだけどね。私にはもう無い思い出って奴で繋がってるんだね」
馬鹿だなー私と笑うアゲハに、ハイドは同調して笑うことは出来なかった。
決して聞き逃せない言葉があったから。
「"もう無い?" それってどういう意味だよ」
「文字通りだよ。全部切り捨てられちゃったから……」
「――切り捨てられた?」
「そうだよ。忘却っていう名前のヤスリでね」
そういってアゲハは笑う。
モーションに設定されたとおりの決まった笑顔だけれども、ハイドにはまるで泣きそうな笑顔に思えた。
「現実はね……ログなんて残らないから。繋ぎ続けなければ、いつか切り落とされるの。記憶と一緒に。ブチンブチンと繋がっていた回線が千切れるみたいに、関係は無くなってしまうの」
そういうアゲハの言葉は全てが分かり難く、曲解しているような内容だったけれども、目の前で語られるハイドにはなんとなく意味がわかった。
「ねえ、ハイドは知ってる?」
「誰からも忘れられたら、その人は居ないことになるんだよ」
そう告げる彼女はまるで別人のようだった。
声は変わらず一定で、外装は何の変化もしていないけれども、その向こう側にいるであろう彼女の気配がハイドにはまったく違うように思えた。
「アゲ……ハ?」
明るく振舞っていた彼女とは別人のようで。
ハイドは思わず目を疑いながら何か言おうと近づこうとして――気付いた。
「アゲハ!!」
ハイドが叫んだ先。
ハイドに振り向いて立つ彼女の背後に、巨大な影があった。
巨大な甲冑が自律可動したかのようなモンスター――ジェネラルアーマー。
本来モンスターが出現するはずの魔法陣を解放していない以上、フィールドで放浪するはぐれモンスターだろう。
その巨大な姿がアゲハの後ろに立っていた。
「え?」
アゲハは振り返り、ようやくその姿に気付く。
「逃げろっ!」
ハイドが足を踏み出す。
「――"アプドゥ"!」
そして、本来双剣士には装備出来ないはずの重装備【鬼の手】に刻まれた呪【アプドゥ】を起動させて、倍速化。
文字通り風を切り裂くような速度で走るけれど――
間に合わない。
「あ」
ぎこちなく逃げようとして、けれども途中で足を止めてしまったアゲハを。
――容赦なくその鉄槌が殴り飛ばした。
目の前でアゲハの身体が宙を舞い、まるでぼろくずのように吹き飛んだ。
「テ、メエ!!!」
その光景を見つめ――否、凝視しながら、目の前で武器を振り抜いた鎧に瞬間移動のような速度で迫り。
"疾風荒神剣"
嵐というのも生温い瞬くような斬舞に、ジェネラルモンスターが幾重もの輪切りになって消し飛んだ。
そして、倒したモンスターが光に昇華されるのも見届けず、ハイドは吹き飛ばされたアゲハに駆け寄った。
「アゲハ! 大丈夫か?」
メンバーアドレスを取得していないため、パーティを組んでいないハイドにはそのHPが分からない。どれぐらいのレベルかも知らない。
まだ低レベルのままならば一撃で即死していてもおかしくなかった。
そして、駆け寄ったアゲハは……
「ふー、即死はしてなかったみたいだな」
「……びっくりした」
灰色にならず、なんとか身体を起こしているアゲハの姿に安堵するハイド。
ごそごそとスクリーンメニューを操作して回復アイテムを取り出そうとするハイドを見ながら、アゲハは笑った。
「ありがと」
「え?」
「心配してくれて」
「……いや、そりゃあな」
ストレートな言葉に、ハイドが少し照れたように頬を書いた。
「でも、びっくりしたよ。いきなりこう……」
その瞬間、不意にアゲハの言葉が止まった。
「どうした? アゲハ?」
「……」
「おい?」
そして、ハイドの言葉にアゲハは答えなかった。
まるで彫像のように。
ただ動きが止まっていた。
それから。
一時間立っても、二時間立っても、アゲハは動かなかった。
なにかの誤作動かそれともリアルで寝落ちでもしたのかもしれない。そう考えて、ハイドはアゲハをモンスターの出ないダンジョンの入り口エリアまで運び込んだ。
そして、アゲハがプレイするのを待ちながら、入り口エリアでハイドは眠った。
そして目を覚ましてた時にも、アゲハは動かなかった。
置かれた場所から彼女の外装はぴくりともしていなかった。
丸一日近くたったというのに彼女の外装は動かされていなかった。ログアウトもせずに。
「どうしたんだよ……一体」
呻くように呟くが、それに誰も応えない。
「リアルでトラブったのか? ならメールで……いや」
彼女のメンバーアドレスを所有していない自分ではショートメールすらも送れないということに気付いた。
「くそっ」
唸るように頭を掻きながらハイドは少し考えて――決意する。
「悪い。もし俺が居ない間に戻ってきたら、マク・アヌのカオスゲートで待っててくれ」
彼女のボイスチャットログに残るようにハイドは告げて、その場から飛び出していった。
【Δサーバー 水の都市 マク・アヌ】
走った。
ひたすら走った。存在するかもどうか分からない心臓を動かして、ただ現象として起こる荒いと息を大気無き虚構世界に吐き散らしながら、ハイドは走った。
カオスゲートを突破し、ただひたすらに走りぬいた。
そして探す。
知り合いの顔を、自らが信頼する友人たちの姿を。
(くそったれ!)
BBSには既に情報を書き込んだ。
スノーフレーク。彼が使う符号によって、マク・アヌに誰でもいいから来れるように布石は打った。
ここで待っていればいずれ来る、そういう確信がある。
けれども焦燥感がそれを許さなかった。
(早く早く早く)
安心なんて一秒も出来なかった。
だから動く。
だから走る。
倍速呪紋を発動させ、賑わう人ごみの中を縦横無尽に駆け抜けながら知り合いを探す。
誰一人でもいいのだ。
たった一人でいいのだ。
あの少女は、彼女は、気のいい彼の友人たちとメンバーアドレスを交換していたのだから。
一人でも見つければ事足りる。
だから――
「ハイド!」
そう呼びかける紅い衣と帽子を纏った少年の姿を見た瞬間、周りのことも忘れてドリフトじみた急停止をした。
「カイト?!」
慌てた様子でハイドの元に駆けつけてくるのは色違いの外装の少年。
蒼炎のカイト。
そう呼ばれるハイドのかけがえのない友人の一人だった。
「見つけた! 探してたんだよ、ハイド!!」
「探してた?」
おかしい。
それは順序が逆ではないのか?
「ちょっとまて。カイト、お前は俺が書いたBBSで来たんじゃないのか?」
「え? いや、それは知らないけど……」
ハイドの言葉に一瞬不思議そうにカイトが首を傾げて、しかし次の瞬間には我に帰ったように言葉を吐き出す。
「いや、そんなことよりも! ハイド!! "アゲハちゃんはどうしたの?!"」
「は? なんでお前がそのこと知ってるんだよ!?」
まだアゲハに起こった異変のことは誰にも教えてない。いや、説明する暇もなかったというべきか。
「そんなことはどうでもいいから、もし君が知ってるなら説明してくれ!」
「あ? ああ」
いつになく強引な態度でそう告げるカイトには有無を言わせない迫力があった。
それに応じてハイドはウィスパーモード(対象者以外には聞こえない)に切り替えて、同じくウィスパーモードに切り替えたカイトに起こった異変のことを説明する。
そして、その説明を聞き終えたカイトは……
「やっぱり……本当なのか……」
まるで何か絶望するような声音でそう呟いた。
「ガセ? どういう意味だよ、それ。カイト、お前何を知ってる?」
「……」
ハイドの問いに、カイトは沈黙する。
答えたくない……いや、答えてもいいのかと悩むような態度でカイトは口を開かず。
「――答えろよ!」
その態度にハイドが声を荒げて叫んだ。思わずカイトの襟首を掴み、叫んでいた。
いつの間にか、ウィスパーモードから切り替わったのか、周りを歩く人ごみがギョッとした態度でハイドたちを眺めているが、ハイドはまったく気にせず、カイトもまたそれに目もやらない。
「……メール」
「は?」
「アゲハちゃんのメンバーアドレスからメールがあったんだ……」
「え?」
予想もしていなかった言葉に、思わず襟首を掴んでいた手を離すハイド。しかし、そんなハイドの態度にも構わずカイトはこう告げた。
「多分ボクはアゲハちゃんがどうしてそうなったのか大体知ってると思う。いや、ボクだけじゃなく、他の皆も知ってるはずだ」
「知ってる? ならアゲハはどうしたんだよ? 教えてくれよ」
「それは……出来ない」
「は?」
「ボクの口からじゃ……君に伝えちゃいけないんだと思う……」
そう告げるカイトの声音は震えていた。
まるで何かとてつもなく辛いことを耐えているかのように。
泣き出したくなるような声だった。
「ハイド。カオスゲートに行くんだ」
「え?」
「――"アゲハちゃんがそこで待ってる"」
「……どういうことだよ」
意味が分からない。
突然アゲハが動かなくなって、その理由を探るために直接メールを送れる他の連中を探して、それでカイトを見つけて、でもカイトはその理由を知っていて、それを知るために動かなくなった張本人のアゲハがカオス・ゲートに居る?
なんだこれは。
まるでチグハグなまま止めたボタンのようだ。
進めば進むほど誤差が出て、歪んで、よく分からなくなる食い違いだ。
「いけば……分かるのか?」
「うん」
カイトが頷く。
「分かった……正直まったく状況が解らないが、それで全部スッキリするんだろ」
「間違いなくね」
「なら行くわ。サンキュ、カイト。今度なんかプレゼントするよ」
そういってハイドが走り出す。
その姿を見送りながらカイトは微笑んだ。
虚ろに。
悲しげに、涙を流さない外装の向こう側で、カイトのリアルは嗚咽を洩らした。
誰にも気付かれないように泣き叫んだ。
【Δサーバー 水の都市 マク・アヌ】
それはそこに立っていた。
その少女はそこに佇んでいた。
真っ白いローブを身に纏い、つい数十分前までハイドの傍で彫像と化していたスワロウテイル――揚羽蝶の名を持つ少女がそこにいた。
「アゲハ!?」
ハイドが叫んだ言葉に、アゲハはぎこちなく動きで振り向いて。
「――"君がハイドかね?"」
「え?」
声音はそのままに、まったく違う口調がアゲハの口から飛び出した。
そして感じる雰囲気が自分の知る彼女とはまったく違うことに気付いた。
「誰だ……アンタ?」
「すまない。私はこのPCを使っているものの"主治医"だ」
「……主治医?」
主治医。
つまり医者。
「アゲハは病気なのか?」
「ああ。一応彼女も画面を見ているが今の彼女には操作は困難なため、代理で操作している」
「困難……」
一体アゲハのリアルはどうなっているのか。まったく想像が出来ずに、ハイドは顔を曇らせた。
「それで一応確認しておきたいのだが、君がハイドで間違いないかね?」
「あ、ああ」
「そうか……」
ハイドが頷くと、アゲハは――いや、アゲハの外装を使っている者は小さく息を吐き出したように思えた。
「済まないが、二人きりで話せる場所を用意してもらえないかね?」
「え?」
「君もこの子がどうなっているのか知りたいだろう? いや、君には知ってもらいたいと彼女が希望しているのだよ。承知してくれるかね?」
アゲハの声を持って、おごそやかな男性の口調でそう告げる誰かは穏やかだけれども強い威圧感を持っていた。
その言葉に、ハイドはしばらく躊躇うように眉を潜め、少しだけ思案するように目を閉じて。
「わかった」
静かに頷いた。
「なら今から言うエリアに付いてきてくれ。転送方法は分かるか?」
「一応マニュアルには目を通してある」
「じゃあ――」
そういって、ハイドは三つの単語を呟いた。
【Δ 隠されし 禁断の 大樹】
それはどこまでも広がる巨体だった。
見渡す限りの草原の中央にたった一本だけ巨大な木がそびえている。
まるで天を支えるかのように巨大で、まるであらゆる人々を抱擁するかのように巨大な大樹がそこにあった。
より多くの太陽の恵みを受け止めようと発達した枝葉の間からもれ出る光はどこまでも幻想的で、その壮大な景色は現実感がなく、ただ美しいとしかいいようがなかった。
それは後の世でロストグラウンドと呼ばれるエリアであり、後に一人の撃剣士の女性が己の剣を手に入れる場所。
だが、そんなことは今のハイドと、それに相対する者にとっては関係なかった。
「それで」
いつか共に来ようと考えた場所で、誘おうと思っていた少女の外装を使っている人物にハイドは言葉を吐いた。
「アゲハは……スワロウテイルのプレイヤーはどうなっているんだ?」
偽りは許さないとばかりに強い視線で、目の前に立つ少女の外装を睨む。
その視線に、外装を使う者は静かに告げた。
「ALS。というものを知っているかね?」
「ALS?」
「――【Amyotrophic Lateral Sclerosis】 日本では【筋萎縮性側索硬化症】と呼ばれている。彼女はその患者だ」
「筋萎縮性側索硬化症? ……それはどういう病気なんだ?」
「端的にいえば全身の筋力低下及び筋肉の萎縮だ」
「筋力の低下に筋肉の萎縮って……それは……」
「そうだ。彼女はもはや病室から一歩も動けないし、自身の意思で腕を上げることすら不可能な状態だ。今それどころか自立呼吸も出来ず、今は人工呼吸器で生命維持している」
「なっ」
想像もしなかった言葉に、ハイドは絶句する。
けれども、それを語る者は言葉を止めずにさらなる事実を告げた。
「発症確率は10万人に2人。好発年齢は40代~60代で、彼女のように十代の若さで発病したのは世界でも稀なケースだ。そして、もう発症してから五年近くだ。この意味が分かるかね?」
「そ、れは……」
それはどんな苦痛だったのだろうか。
それはどんな地獄だったのだろうか。
本来味わうはずの青春を小さな病室でどこまでも無機質に過ごしていく日々は、その辛さはハイドには想像することも出来ない……いや、出来るわけがなかった。
出来るなどとほざくだけでも侮辱になる。
「だから、か」
あんなにも人と話すことが嬉しそうだったのは。
あんなにも風景を見て楽しげだったのは。
あんなにも人に構われて幸せそうだったのは。
その全てが、彼女の夢想していた夢そのものだったのかもしれない。
「それは……」
そんな彼女の心を想像しながら、ハイドは尋ねた。
「なんだね」
「いつ治るんだ?」
彼女はいつか元気になれるのだろうか。
またいつか同じようにこの世界で会えるのか。
そんな思考と願望が入り混じった問いを。
「――無理だ」
その医者は切り捨てた。
「え?」
「ALSは現代医学ではまだ根本的な治療法がない病気だ」
「な」
それは不治の病ということなのか?
「精々出来るのは原因物質と思われるグルタミン酸の放出剤の投与と人工呼吸器による延命だけだ。軽度ならば一生動けないだけだろうが、重度の進行ならば呼吸筋麻痺で確実に死ぬ」
「まてよ」
「そして、彼女は重度の患者だ。遠からず死ぬことが決定された者だ」
「――待てつってんだろ!」
言葉を続ける医者の言葉を遮って、ハイドが叫んだ。
「これを"アイツも見てるんだろ?!" なんで! なんでそんな希望を奪うようなことを言うんだよっ!」
もはや絶叫だった。
聞きたくもない事実の羅列に、ハイドは耳を塞ぎたい気持ちを堪えて叫んだ。
人が死ぬ。
そんなのはハイドにとって見たことも、想像したくもない光景だった。
否。ありえないとすら半ば思っていた。
何故ならこの世界は彼にとって――"ゲームの中だから"
けれども、死ぬことが約束された少女の外装を使う者は事実を告げる。
「そうを伝えることを彼女に頼まれたからだ」
「……え?」
「君には隠し立てをしたくないと、迷惑かもしれないけれど全て知って欲しいと頼まれた。だから私はこうして彼女のPCを借りて、君に伝えている」
「アゲハ……が?」
「そうだ」
そう告げて、目の前のアゲハの外装はゆっくりと頷いた。
そして、それから少しの間だけアゲハの外装が動きを止めた。
呆然としているハイドの前で、僅かに小さな雑音じみた声が漏れ出ると、僅かな間を置いてアゲハの外装は告げた。
「彼女と替わる」
「え?」
「好きなだけ話しなさい。"時間は残り少ないが"」
そうアゲハの外装が告げると、不意にガクリとした形でその挙動が停止した。
「アゲハ?!」
その挙動に思わずハイドが、その手を掴む。
そして、その瞬間その外装が緩やかにスイッチを入れ直されたかのように揺れ動いた。
「ハ……イド?」
アゲハの唇がゆっくりと動いて、そう呟いた。
「アゲ、ハか?」
「う……ん」
ゆっくりとだけれども、彼女は肯定の言葉を告げた。
先ほどまでと同じ声、ただ告げられる声のテンポが遅いだけ。それだけの違いしかないのに、ハイドにはそれがアゲハ……そう呼んでいた少女のものだということが分かった。
「話しても……平気なのか?」
「う……ん」
たった一文字発するだけでも少しの感覚があった。
ハイドは想像する。
言葉を吐き出すのには息を吸って、吐くという行為で声に変換しなければいけない。息を吸わずにして喋り続ければ酸欠になるだけだ。
彼女はたった一文字の言葉を呟くにも、息を吸わなければならないほど呼吸が出来ないのだろうか。
それはどんなに辛いんだろうか。
それはどんなに難しいんだろうか。
ただ想像するだけでも吐き気がするような状態になりながらも、アゲハは喋ろうとしている。
だから。
ハイドは――
「アゲハ……」
彼は吼え叫びたい気持ちを必死で堪えながら、静かに彼女に告げた。
「ゆっくりでいいから、さ……話そうぜ……」
ハイドは意識して作り上げた笑みでそう語りかけた。
油断すれば泣きたくのを懸命に我慢して、彼は笑みを浮かべる。
「あり……が……とぅ」
掠れた言葉。
決して変化していない外装の向こうで、ハイドにはアゲハが微笑んだような気がした。
そして。
ハイドとアゲハは言葉を交わし始めた。
たった数回の言葉でも数分以上が掛かる、まともに会話も成立しないイライラするほどゆっくりとした会話。
それでもハイドは何も言わずに返事を返し、アゲハは掠れるような声で言葉を吐き出す。
それで色々なことがわかった。
彼女はまるで憶えていてもらいたいように、ハイドに自分のことを話した。
――自分の声はもう本当は出ないのだと。
今の声は発症前の自分の声をサンプリングし、人工呼吸器に取り付けた機材によって変換している偽りの声。
全てが偽り。
虚像で構成された外装と同じように声すらも虚構であり、ある一つを除いて全てが誤魔化しなのだと彼女は告げた。
「ある一つって……なんだ?」
「わた……しの……なま……え」
「なまえ?」
「……すわ……ろぅ……ているは……」
PC名のスワロウテイルの由来は、リアルの自分の名前から名づけたのだという。
「ほん……んとぅ……に……あげはって……なまえなんだよ……わ……たし……へんかな?」
「そんなわけねえよ……良い名前じゃないか……」
「だからね……きみに……みん……なに……よばれる……たびに……うれし……かったの……」
リアルで、私の名前を呼ばれることは殆どないのだから。
そう悲しげにアゲハは呟く。
「じこ……まんぞく……か……な?」
「……そんなわけ……ねぇよ……絶対にそんなことは……ねえよ」
一言応える度に、ハイドは絶叫したい自分の衝動を押し殺していた。
喋るなと。
もう休めと言ってやりたい。
アゲハの言葉を聞くたびに、搾り出すようなその声の低さを聞くたびにそう言いたくなる。
けれども、それは出来ない。してはならないのだとハイドは理解してしまう。
彼女の望みを叶えろと、ハイドの理性が、人の感情を理解する賢しい知恵がそう告げる。
だから。
だから!
「あり……がとぅ……」
「……っ」
彼女から感謝の言葉が漏れ出る度に、ただ彼女の外装の手を握り締めるしかハイドは耐える術が分らなかった。
単なるデータの塊。
CGとテクスチャーで構成された紛い物。
現実ではない仮想世界の産物。
けれども、その産物の手を握るハイドにとってそれら全てが現実だった。
いや、"彼にとってこの世界は現実なのだから。"
「……アゲハ」
アゲハの手を握り締めながら、ハイドは静かに呟いた。
「な……に?」
ハイドの顔は俯いていて、目線すら動かせないアゲハにはその表情が分からない。
「俺は……」
囁くように、振り絞るようにハイドは言った。
「俺には……リアルがないんだ」
「……え?」
「お前の居るリアル……には俺は存在しない。俺はこの世界だけの……存在なんだ」
彼は告げた。
「俺は……この世界でしか生きれないんだ……」
隠していた事実を。
「だから……俺は……」
リアルのお前と出会うことも、リアルのお前の顔を見ることも出来ない。
そう告げようとして――
「……よか……った」
アゲハの言葉に硬直した。
「え?」
「き……みは……やさ……しぃ……このせ……かいで……いきて……いける……んだね」
掠れた声。
か細い声だけれども、彼女の声は嬉しそうに笑っていた。ハイドにはそう思えた。
「なんで……嬉しそうなんだよ……俺は……お前に何も出来ない……ってことなのに……」
俺には何も出来ない。
彼女の見舞いに行くことも。
彼女と直に話すことも。
死んだ彼女の葬式に行くことも。
死に逝く彼女に対して、この世界でしか活動出来ないハイドはどこまでも無力だった。彼はそう思った。そう思っていた。
「……ちがう……よ」
けれども、彼女はそれを否定する。
「きみは……やさ……しく……して……く……れた」
彼女はそれを弁護する。
「きみは……とも……だち……に……なって……くれ……たよ?」
彼女は……微笑んだ。
変化しない外装の向こうで。エモーションコマンドも入力されず、彫像のような外装の向こうで、端末の先にいるリアルの彼女は微笑んだ。
ハイドにはそう思えた。そうとしか思えなかった。
「……あげ……は……」
そして。
「おれは……お前に……なにをして……やれる?」
震える声で、震えた手で、ハイドは告げる。
弱り果て、力を失い、ただ死に逝く少女に向けて、彼は尋ねた。
何か一つでも。
どれか一つでも彼女が喜んでくれるものを捜し求めた。
「……き……ろく……」
「え?」
「……ひと……つ……だけで……いい……から……のこ……させ……て」
声が霞んでいっているような気がした。
聞き取りにくく呟かれた声は、チャットログという文面でハイドの目に残った。
「き……ろく?」
記録――メモリー。
あるいはログ。
この仮想世界の中で残る情報の残滓。それをアゲハは求めているのだろうか?
(……違う)
彼女が求めているのは記録なんかじゃない。
彼女が欲しいのは情報なんかじゃない。
――彼女は言っていたじゃないか。
「文字通りだよ。全部切り捨てられちゃったから……」
「そうだよ。忘却っていう名前のヤスリでね」
「現実はね……ログなんて残らないから。繋ぎ続けなければ、いつか切り落とされるの。記憶と一緒に。ブチンブチンと繋がっていた回線が千切れるみたいに、関係は無くなってしまうの」
「"誰からも忘れられたら、その人は居ないことになるんだよ"」
(そうだ)
ただ彼女が恐れているのは……忘れられること。
ただ彼女が望んでいるのは消えない絆。
千切れない接続。
(それなら……)
「アゲハ」
ハイドは彼女と繋いだ片手をそのままに、空いた片手で出現させたスクリーンパネルを操作した。
幾つかの仮想パネルを指で叩き、決定キーを押し込む。
「……え?」
アゲハが戸惑った声を上げた。
今彼女の目にはある画面が映っているはずだ。
「アゲハ……お前が望むなら……ボタンを押してくれ」
その画面とは……
「いい……の?」
「ああ」
『スワロウテイルのメンバーアドレスを取得しました』
メッセージが出現した。
ただ今まで誰一人として貰わなかったメンバーアドレスを取得した証拠を。
そして、誰一人として手に入れることが出来なかった【孤高】のメンバーアドレスを、アゲハ――スワロウテイルは手に入れた。
たった一つだけど、ただ世界で一人、孤高の少年と少女は接続した。
想いじゃなく。
感情でもなく。
記憶でもなく。
ただ情報という電子で構成された絆が二人の間に繋がれた。
「……あ」
それに、アゲハは静かに声を上げた。
「こ……こう……じゃな……なくなったね」
「構わねえよ。今日で【孤高】は廃業でも構わない……」
目の前の少女が喜んでくれるなら。
この世界の先に居る少女が喜んでくれるなら、誰かが付けた称号なんてどうでもいい。
そう、どうでもよかったんだ。
「ハ……ィ……ド」
「なんだ?」
掠れた声。
もう蚊が鳴くぐらい小さな声に、ハイドは問い返した。
そして、少女は――
「す……き……」
自分の想いを告げて。
「え」
「……」
「今なんて……」
「……」
「言ったんだよ」
「……」
「アゲハ」
「……」
「アゲハ?」
「……」
「アゲハ!?」
彼女は
――世界から消えた。