最悪。
ただその言葉だけが頭に浮かんだ。
視界はザーザー。衣服はずぶ濡れ。手押しで進む自転車は限りなく重くて、うっとおしい。
本日の天気は最悪だった。
豪雨の上に、強風です。季節はずれの台風がやってきている。
「ああもう、泣きたい……」
折角遠出して買った買い物も、この分だとずぶ濡れだ。頑張って体で防いでも、小柄な体に隠せる面積は決まっているし、そもそも隠す体の服が濡れていたら意味が無い。
最低、最低、最低。
もう泣きそうだ。
「……寒い」
全身から震え上がるような寒気。
ベットリとした衣服の感覚に、せっかく楽しみにしていた休日が潰された悲しみが圧し掛かってくる。
泣きそう。いや、少しだけ泣いた。
流れる涙でさえも、雨に流されて、塩味すらも感じないのがどこまでも皮肉だった。
寒い寒い寒い。
早く家に帰りたい。いや、雨に当たらない場所ならどこでもいい。
なのに、駅までまだ時間がかかる。距離がある。
普段ならば十分と立たずに付く距離だったけれど、今の状況ではそれは遠い遥か果てのように思えた。
「もぅ……いやだよ」
だから、普段は発しない口調で弱音を吐いた。
その時だった。
「――大丈夫?」
不意に差し出された傘
「え?」
バタバタと揺れ動いていながらもしっかりと差し出された傘。
そして、その持ち主は自分がずぶ濡れなのにも関わらず心配そうな顔で、私を覗き込んでいた。
それが、私――【平賀 才人】と彼【如月 陸】との出会いだった。
【彼な彼女と雨下がりの高校生と変わった店主】
その日は珍しく風と雨が強かった。
「風が強いなー」
「そうだな」
ガタガタと揺れる部屋の窓を見ながら、二人の人物がぶっきらぼうな口調でそう言った。
二人のうち、片方の名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
トリステイン魔法学園に通うメイジである少女……の筈なのだが、その実質は違う。
"彼"の本名はルーク・フランデルト・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
れっきとした【男】である。何故そのようなことになっているかは色々と事情があるのだが、そこらへんは省略させてもらおう。
外見上からはふわふわとしたピンク色の髪をしたまな板美少女としてしか認識出来ないため、下内のところそれが家族及び一名を除いてバレてはいない。
「今頃の季節って、これが普通なのか?」
クイッと首を傾げて、窓を見つめていたもう一人の同居人がルークへと目を向けた。
「いんや、こんなに荒れるのは珍しいほうだ。トリステインでもここらへんは穏やかな気候だからな」
そういいつつも、ルークが困ったように頬をかく。それは返答に困っているような態度にも見えるが、スラスラと疑問に答えているからそれはありえない。
その困った態度の原因は全て目の前の男口調の――"少女"にあった。
彼女の名は【平賀 才人】 春に行われたサモン・サーヴァントの儀式でルークが呼び出してしまった"平民"の少女だ。
外見上は童顔の少年にしか見えずしかも女性らしくない低い声に男口調で、なにかとして男だと勘違いされる少女である。
しかも、実は異世界の人間だったりと驚愕すべき素性を持っているが、最初に聞いた時こそ驚いたが今はもう殆どルークは気にしていない。元々細かいことを気に病むような性質ではないのだ。
しかし、こういう小首をかしげたり、ジッと曇りのない瞳で見つめられたりなどすると、普段は感じない
異性の魅力……というか、そんなものが感じてしまってルークは困るのだ。
最初は誤解の上に使い魔と主人という関係で反発が起こり、不仲であったが、その後起こった土くれのフーケ事件やアルビオンでの極秘任務など色々な事件を共に潜り抜け、お互いの仲は当初と比べてかなり縮まっていた。
いや、正直に言えば、才人自身の気持ちは分からないが、ルークは才人という少女に好意を抱いていた。
少しだけ獣欲も混ざって。
(くっ! そ、そんな小動物的な目と愛らしい態度を取るな! う、ううう嬉しいことは嬉しいんだが、理性が、理性がぁああ!!)
などという獣の本能と紳士の理性のせめぎ合いを、ルークは長年の女装生活で築き上げた鉄壁のポーカーフェイスで覆い隠す。
そんな感じで、夜な夜な才人に夜這いをしようかどうかで本能と死闘を繰り広げる健気なルークのことを知ってか知らずか、再び才人は窓の方を見るとため息を吐き出した。
「そういえば……あの日もこんな天気だったなぁ」
「……あの日?」
才人がポツリと洩らした言葉に、根性で本能を殴り倒したルークが涼しい顔で訊ねます。
「え、あ。いや、"向こう"にいた時のことを思い出しただけだ……」
そういった時の才人の顔に、ルークは表情を渋くしました。
その才人の表情は故郷を懐かしみ、そして淋しがる顔。なんといっても、問答無用でこの異世界に引きずり込んだのはルークが原因です。
「あ、いや、別に淋しいとかそういんじゃないんだ! ただ思い出しただけで――」
ルークの表情に気付いて、バタバタと胸の前で手を交互に振る才人。
「あのさ、それってどんな思い出なんだ?」
「え?」
「もしよかったら話してくれねーか。俺もちょっとは向こうのことに興味あるし」
胸のうちの悩みも吐き出せば少しは楽になるだろう。
そう考えてのルークの発言だった。
その提案に才人は再びうーんと顎に手を当てて考えて、やがてゆっくりと口を開きました。
「それは確か、俺が中学生の時で……」
それは降り注ぐ雨の中、差し出された一振りの傘。
「えーと、ナンパ?」
「違うよ」
その現実が信じられなくて思わずとぼけた返事を才人はしてしまうが、傘を持った一つか二つぐらい年上らしき少年は苦笑した。
「困ってるみたいだから、声をかけたんだけど迷惑だったかな?」
「いや、それはありがたいんだけど」
そう答える才人はいつの間にか涙が引っ込んでいた。互いにずぶ濡れなのに、こうしてマヌケな会話をしていることに安心したのかもしれない。
そして、同時に嫌悪感を感じた。相手にではなく、自分に。
こうして声をかけてもらい、心配してもらっていてもなお、染み付いた男のフリで乱暴な態度しか取れない自分に吐き気がする。
けれども、そんな自分に少年は優しい態度でこう告げた。
「――"女の子"がこんな中で傘も差してないのは放っておけないよ」
「え?」
女、の子?
聞き間違いだろうか? どんな人でも一目で自分を女性だと気付いた人はいないのに。
いやでも、少年の目は完全にこちらを心配そうに見ている目だ。それに幾らなんでも男の子と女の子は聞き間違えないだろうし。
「よく気付いたな……大抵皆間違えるのに」
「いや、僕もパッと見だと判断出来なかったけど……ほら、今はその状態だし」
その状態?
何故か少年は目を背けて、指を自分の胸辺りに向けてきた。
「?」
自分の体を見下ろしてみる。
それは男もののジーンズの上に、白いワイシャツを着た……ってあ!
白いワイシャツはずぶ濡れで……下着が透けて見えていた。
その瞬間、思考が停止した。
「この――エッチぃ!!」
「がふっ!」
そして、気付いた瞬間。
私は数少ない女性らしい悲鳴を上げながら、全力右ストレートを目の前の少年に叩き込んでいた。
「あ痛たた……」
「わ、悪い。大丈夫か?」
「あー、うん。僕もちょっと気遣いが足りなかったからね、心配する必要ないよ」
こちらが殴った頬を押さえながら微笑む少年――如月 陸と名乗った少年の後を付いて、才人は傘を差しながら歩いていた。
それも寄り添って。
才人が傘を差しているのは強引に陸から渡されたからだ。
陸曰く「君は年下なんだし、女の子が体を冷やすのはよくないよ」と告げ、才人は「そんな気遣いは必要ねえよ。元々アンタの持ち物なんだから、アンタが差せ!」
という論争の結果の妥協点が、今の合い合い傘である。
これなら両方傘に入れるだろ? と才人の方から言い出したのだが、内心は失敗したと思っていた。
(うぅ、男の人と合い合い傘なんて生まれて始めて……じゃないのが悲しい)
普段は男として認識されている才人である。
男友達と何度も傘を共有したことなんて数え切れないほどだ。
けれども、はっきりと自分が女性だと認識された状態での傘の共有は初めてだった。
(なんか……緊張する)
心拍数が上がり、ドキドキと心臓が高鳴るのを感じる。
これが女性として始めての男性との合い合い傘のせいなのか、それとも雨に打たれてなんとか体を温めようとする生理反応によるものなのか判断が付かない。
「そろそろ着くよ」
しかし、才人の方がそんな困ったような嬉しいような状態なのにも関わらず、陸と名乗った少年はいたって平然とした態度だった。
「もうすぐか」
そう返事しながらも、才人の方はなんでコイツは平然としてるんだろう? と疑問と少しだけ苛立ちの混じった思考で一杯だった。
(もしかして、女性慣れしてるとか?)
顔はちょっと童顔だけどそこそこいけてるし、体つきもそこらへんの学生と比べてガッシリとしているほうだ。
決して悪くない。一応女性である才人の評価としてはそんな感じだった。
「あ、ここだよ」
そんな才人の思考も知らずに、陸は辿り付いた先を指差した。
そこは一つの喫茶店だった。
「SUN&MOON?」
看板に達筆で描かれた文字を読み上げる。
「こんな台風の日に、空いてるのか?」
「見てみなよ」
そういう陸の指先を追ってみると、ガラス戸の向こう側にかけられた板にははっきりと【OPEN】という文面。
「普通、こんな日はCLOSEじゃないのか?」
こんな台風の日は絶対客来ないよな。と思いつつ才人が訊ねると、陸は苦笑する。
「息子の僕が言うのもなんだけど、うちの父さんは変わってるからね。ま、入ってよ」
そういって、陸が父さーんと言いながら、扉を開けて中に入っていった。
そうなのだ。この店は如月 陸の父親が経営している喫茶店で、才人は寄ればタオルとか貸してくれると思うよ? という言葉で誘われてやってきたのだ。
普段の才人なら、そんなつい先ほどまで見知らぬ他人だった少年の誘いなんかにホイホイ付いていくほど無用心ではなかったが、強い雨に打たれて寒いのとそんな中で優しく傘を差し出してくれた陸に対してどこか信頼感があったのかもしれない。
とりあえず数秒間入るかどうか迷った後、「ええいままよ!」と才人は中に入ることにした。
「失礼しまー、わっぷ!」
ベルを鳴らしながら扉を開けて中に入った瞬間、顔目掛けて何かが飛んできた。
「た、タオル?」
顔にかぶさったものを剥ぎ取ると、それは一枚のタオル。
「それで体を拭くといい」
「え?」
その声に目を向けると、厨房と一体化したカウンターの向こう側に精悍な顔つきをしたエプロン姿の男が立っていた。
そして、カウンターの片隅には十数枚と折り畳まれたタオルの山があることから、どうやらそこから一枚取り出して、才人に投げ渡したのだと推測出来た。
「えーと……」
「私は、アレの父親だ」
そういって振り向きもせずに男が親指で指し示した方向に居たのは、同じようにタオルがグシャグシャと髪を拭く陸の姿。
「息子が迷惑をかけたようだな」
「え、いや、どちらかというと世話になったというか……」
抑揚のなく口調で淡々と用件を告げる陸の父親に、才人は渡されたタオルで体を拭くことも忘れて、どうすればいいのかと対応を考えていると。
「ん? 君は女の子か」
「え?」
「タオルを渡して済ますわけにはいかないだろうし……そのままだと風邪を引くな」
少しだけ困ったように眉を潜めて、父親と名乗った男はそのまま店の奥の従業員用と書かれた扉に目を向けた。
「君、身長は170ぐらいか?」
「あ、はい」
問われて、思わず素直に答える。現在の身長は丁度170だった。女性にしては高い方の身長で、その所為で余計に男性と思われることが多くなったんだよな……と微妙にへこむ才人。
「そこの扉に入って、女性用のロッカールームから予備の従業員服を着るといい。個室の一番奥のロッカーに入ってる」
「え?」
「そのまま濡れた服じゃ、マズイだろう? あと陸はバケツとモップで入り口の水滴を拭いておけ、俺はコーヒーの準備をしておく」
「分かったよ」
着ていたランニング用ジャージの上を、バケツの上で絞って水気を切っていた陸が、テキパキと奥に配置してあった用具ロッカーからモップを取り出した。
「え、ええと?」
「さっさと着替えてきなよ。風邪引くよ?」
手際よく、店の中に滴り落ちた水滴類をモップを拭いながら、陸が告げて。
才人はいきなりの展開に戸惑いながらも、言われるままに従業員用の扉を開けて、中に入った。
その奥にあった男子用と女子用と書かれた二つのロッカールームを見つけて、迷う事無く女性用のロッカールームに入る。
そして、一番奥にあった【予備】と名札に書かれたロッカーを開けると、そこにはS、M、Lと三種類のシールが張られたウエイトレス服に、着替えた衣服を入れる用の籠が一つ。
「あ、これはあんまり派手じゃなくていいかも」
Lとシールの張られたウエイトレス服を広げて、才人はそう思った。
最近のは妙にヒラヒラが付いていたり、秋葉原ならオレンジとか鮮やかな色合いのコスプレみたいなウエイトレス服があるが、これはシックに黒と白で構成されている。
(これなら着れるかも)
と、そこまで考えて、才人はまったく見知らぬ場所で着替える自分の行動に赤面した。
なんでこんなことになってるんだろう? とも考える。
(よくゲームや漫画だとここらへんで乱入されるんだよね)
タオルーとか。あ、間違えたとか、むしろ襲う勢いで(これがPCゲームの場合)……
(ま、漫画ゲームとは現実は違うわよね!)
ブルリと考えた身の危険に寒さ以外の鳥肌を立てながら、才人はゆっくりと上着を脱ぎ始めた。ワイシャツのボタンを、寒さでかじかんだ手でプチプチと外していく。
(あー濡れて肌に張り付いてて、気持ち悪い)
なんとか全部外して、肌に張り付いたワイシャツを脱ぐと、露になった素肌をタオルで拭っていく。出来ればブラジャーも外して、タオルで拭きたいところだが下着の代えはないからその上から拭って水気を取るだけに留めた。
「ふー」
上だけとはいえ、濡れた感触を取り除けて才人は息を付いた。
その瞬間だった。閉めた従業員用のロッカールームの扉にノックの音が響いたのは。
(え?)
ビクッと反応して、扉に振り向くと、コンコンと二回のノック音の後、薄く扉が開く。
(え? な、なに!?)
身の危険を感じた。
思わず胸元を片手で覆い、普段棒術で持ち歩いている愛用の棍を持ってこなかったことを後悔した。
「平賀さん、一応こっちの通路の端に乾燥機もあるから、脱いだ奴はそれで乾かせるから」
「は?」
「それだけ。じゃ、ごめんね」
そういって扉が再び閉まる。
ただそれだけだった。
「……」
漫画の読みすぎ。
人の親切を疑いすぎてはいけない。
その二つの教訓を得て、才人はそのままなんか気まずい感じのまま着替えを再開した。
そして。
「なんかスースーすんな……」
ウエイトレス服を着た才人は膝下ちょっとまでしかないスカートの裾を摘んで、そう思った。
女らしくなりたいと思いつつも、男が欲しかった馬鹿両親二人のせいで、ロクにスカートも履いたこともない。
子供の時に履いてたのは短パン、小学生を終える頃にはズボン一択だった。
でも、新鮮な感じ。
止む得ない代用服だとはいえ、女性としての格好をしている。
「似合ってるかな?」
ロッカーの扉後ろについていた鏡を見ながら、クルリと回って、着崩れてないかどうか確認する。
そんな行動も終えてから、とても女性らしいと思って誇らしくなった。
「やっぱり性根は女なんだよな」
口調は直らなくても、心と体は立派に女の子。
それを再認識出来て、とてもよかった。
「さて、と」
着替えるのに思ったよりも時間が掛かってしまった。
衣服を入れた籠を持って、ロッカールームを出る。そして、先ほど陸に言われた通りに小型の乾燥機に見つけると(幸い何度か使ったことのある機種だった)、そのまま放り込んでスイッチを入れる。
これで後は乾くのを待つだけだ。
「これでよし」
空になった籠を乾燥機の横において、才人はフロアへと戻ることにした。
扉を開き、中へと戻る。
「あ」
「む?」
そして、そこで待っていたのはカウンターでタオルを首にかけたままコーヒーを啜る陸と手際よく何かのポットを準備している彼の父親の姿。
「すみません、服借りてますね」
「問題ない。それよりも君は、コーヒーと紅茶、どっちが好きだ?」
「え?」
陸の父親からの言葉に才人は少しだけ考えた。
普段は男っぽい格好なのに恥ずかしくて苦手なコーヒーだと答えるが、本当に好きなのは甘いミルクティーだ。
だから、この時才人は少しだけ我侭に「ミルクティーを、甘いのが好きです」と答えた。
「なるほど」
そう淡々と返事をすると、陸の父親は鍋でグツグツと沸かしていたお湯に紅茶の茶葉を入れた。そして、その火を弱火にすると「座ってるといい」と才人にカウンター席を勧めた。
「あ、はい。えーと……如月のお父さん」
「――息子から自己紹介はされてるな? 私は如月とでも呼べばいい、苗字で呼んで被るならマスターでいい」
陸の父親――マスターはそっけない言い方を才人にそう告げると、彼は鍋の中を見て、用意しておいたらしいミルクを中に注ぐ。
「変わった人でしょ?」
そんなマスターの態度に目を丸くする才人に対して、陸は苦笑しながらそう言った。
「ん、同感かも」
本人の前で失礼かもしれないが、本当にそう思った。
「よく言われるな」
小声だったのにそれが聞こえたのか、まったく顔つきの変えないままマスターはそう告げて、鍋にかけていた火を止めて、ゆっくりと鍋に蓋をした。
「ロイヤルミルクティーですか?」
花嫁修業のつもりで茶の入れ方を齧ったことのある才人は、マスターのやり方に気付いた。
いわゆる煮出しミルクティーと呼ばれるやり方だ。
「そうだ。こっちの方が体が温まるし、香りもいいからな」
そういうと、三分経ったと厨房において置いたタイマーを見て判断したのか、大き目のマグカップに、茶葉取りのネットを被せてから、蓋を取った鍋の中身を注ぎ込む。
十分に煮出しされ、蒸らされた茶葉の香りと低温殺菌のミルクの香りが、冷えた才人の鼻腔をくすぐった。
「甘みは蜂蜜でいいか?」
才人の前に差し出されたマグカップ。その横に小さなビンに入れた琥珀色の液体が、とても鮮やかに輝きを放っているように思えた。
「はい」
まずは味と香りを確かめるために、何もいれずに才人はミルクティーを啜った。
「あ、おいしぃ」
男口調ではなく、素直に感想が出てきた。
今まで立ち寄ったことのあるどんな喫茶店の紅茶よりもとても美味しく、体が温まるようだった。
「父さんは凝り性だからね」
「当然だろう。こういった食事を職業にする以上、手を抜かないわけにはいかない。こんなのは当たり前の義務だ」
苦笑する息子の言葉に、父親であるマスターは平然とした顔つきでそう言いのけた。
「フフフ」
そんな二人を見て、思わず才人の口元に笑みが零れた。
「?」
「いや、息子と父親ってこんな感じなのかなって思って……」
男らしさを押し付ける父親とは、こんな風には会話出来なかった。
ひょうきんでどこか可笑しい両親は押し付けがましい点は嫌いだけど、憎んでるわけじゃない。
それでも擬似的な息子と父親とは違う、本当の父と子の姿に何故か才人は憧れた。
そして、未だに轟々と吹き荒ぶ嵐の中で、才人はミルクティーを飲みながら、一風変わった少年と男との会話を楽しむことにした。
それから一時間ぐらいした後。
ビュウビュウと吹いて、ドアを鳴らしていた風が弱まった頃、コーヒーを飲み干した陸が不意に立ち上がった。
「ん? どうした?」
「そろそろ服が乾いたかも。様子を見てくるよ」
「おいおい、女の服の様子を見に行くのか?」
カラカラと才人はからかい半分の笑みを浮かべて笑うと、陸は肩をすくめて見せた。
「それには抵抗はあるけどね、どうせ下着はいれてないでしょ? 見たとこ男ものの服だし、君が着にしなければいいんだけど……」
「ん。まあ気にしないけど……女の前で下着とかいうな」
ポッと少しだけ才人は顔を赤らめた。
「ゴメン」
それに少し頬を掻いて、「じゃ、仲良くしててよ」と言い残して、陸は奥の扉に消えていった。
「ふー」
そんな陸が奥の扉に去る様子を見送って、才人がため息を付くと。
「変わった奴だろう」
「え?」
グラスを拭いていたマスターがいきなりそう発言した。
何のことか分からずに目をパチクリと瞬かせた才人に、マスターは言葉が足りなかったかと思って言葉を付け足した。
「陸のことだ」
「あ、なるほど」
「君は陸の同級生か?」
え? いまさらそんな質問?
「いえ」
と思いながら、才人は道端で突然声を掛けられたこととココまで来るまでの経緯を話した。
(そういえば、自分でやっておいてなんだけど、変な出会いだったなー)
説明しながら、ホイホイと付いてきた自分に才人は少し呆れた。
さぞや呆れるだろなぁ、とマスターの反応を予想したが。
「……アイツらしいな」
と平然とした態度で、そう応えた。
(え?)
そんな問題? というか、なんでそんなに平然と?
そんな才人の心中を知ってか知らずか、マスターは言葉を続けた。
「父親である私がいうのもなんだが、陸は少し変わっていてな。似たようなことをしたのも一度や二度じゃない」
「というと?」
「迷子になった子供を見つければその親を探して自分の休日を潰したり、道に迷った人が居ればわざわざその目的地まで案内したりする」
「お人よしなんですね……」
絵に書いたような優しい人間だなと才人は思ったが、マスターは意外なことに首を横に振るった。
「いや、アイツ自身はそう思っていない」
「え?」
「アイツは"そうするのが当然の義務だと考えている"。当然の行為だと考えているからやっているのであって、それを親切だとかそんな風に感じたことはないだろう。そうだな、没我的だとでもいえばいいか?」
よく分からない言い回しに、才人は目を丸くしていると。
マスターは少しだけ唇を皮肉げに歪めた。
「不幸なことに、どうやらアイツは私の歪さを継いでしまったらしい。私もそうだが、アイツも少なからず異常者だ」
「え?」
……異常者?
「……少し話が過ぎたな。それよりも君もずいぶんと変わっている」
「へ?」
突然変わった話題に才人が目を丸くしていると、マスターはグラスを磨いていた手を止めて言った。
「最近の女性にしては、ずいぶんと男っぽい格好に口調だ。それなりに変わっていると思ったんだが」
「これは……両親のせいです」
「両親?」
コクリと才人は頷くと、おもむろに何故こうなったのかをマスターに説明し始めた。
学校の友達にも改めて話したことのない問題を、何故こんな出会って半日も経ってないマスターに対して話したのか今になっても分からない。
ただ誰かに話して、楽になりたかったのかもしれない。
ポツリポツリと小降りになった雨音が響く室内で、才人の話を聞き終えたマスターは少しだけ押し黙った後、静かに口を開いた。
「……正直言って、私には君の家庭に口を出す権利もなければ親交も無い」
それはそうだ。
出会って数時間の人間に権利なんてあるわけがない。
「けれど、私には言えることがある。家族というのは"血の繋がっているだけの他人だ"」
「え?」
「幾ら血縁関係があっても自分と他人は違う。近しいだけで、同じではない。だから、私は陸のことを血は繋がっているものの自分ではない他人だと考えている」
「それは――」
酷すぎるんじゃないか。と、才人は思った。
家族は大切なものだ。決して掛け替えのない絆で結ばれた特別なものだと才人は思っている。
「だから、私が陸を育てているのは私自身の意思だ」
「え?」
「親として息子を信じる義務は当然存在する。しかし、アイツを育てている根本的な理由は私自身の意思だ。言うなれば、私自身のエゴで育てている」
そして、とマスターは息を次いでこういった。
「アイツ自身もおそらく――いや、確実にアイツ自身の意思……つまりエゴで私に育てられ、私の背中を見て、私の歪みを真似ているのだろう」
「そんなことはないんじゃ――」
「きっとこれはアイツと私に血が繋がって無くても変わらないはずだ。私が妻と家族になったようにな」
そういうとマスターは少しだけ視線を変えて、厨房の奥を見た。
そこには若い女性が、今よりも少しだけ若くなったマスターと強引に腕を絡めてピースサインをしている写真が飾られていた。
「今の君には分からないだろうが、夫婦というのは血ではなく、お互いの意思でなる"最初の家族"だ」
「夫婦……」
「血の繋がったものが家族というのなら、夫婦はどうなる? 妻と夫には血の繋がりなどない、互いの意思だけで家族となったものだ。他人が、他人を思って、互いに離れたくないが故に家族という形になっただけの存在だ」
そこまで告げるとマスターは少しだけ間を置いて、言った。
「だから、君はもう少しだけ我侭になっていい。相手は"血の繋がっただけの他人なのだから"、君の人生を決めさせられる権利などない」
「……」
才人はその言葉に何の反応も返せなかった。
ただ両親が望んだから、少なからず親の方針に従わなくてはという意思もあって、彼女は望まれるままに男装を続けていた。
けれども、マスターの言葉はその定義に少しだけ亀裂を入れた。
力を与えてくれた。
「……ありがとうございます」
だから、才人は笑って、お礼を言った。
「必要ない。コレは私の定義だ、君の生き方じゃないからな。参考程度にしておいてくれ」
そう告げると、マスターは静かに後ろを向いて、グラスを磨き始めた。
(もしかして照れてるのかな?)
才人はなんとなくそう思った。そして、それはそんなに的外れじゃないかもと感じる。
そして。
「平賀さん、服乾いてたよ」
乾いた才人の服を丁寧に折り畳んで、籠に載せた陸が奥から戻ってくる。
「お、サンキュ。如月」
「どういたしまして――って、あ!」
「え?」
陸が声を出し、才人はその視線の先を見た。
それはガラスの扉。そこに打ち付けていた雨の音は無く、むしろ光が見えていて――
才人は立ち上がった。
陸もまた籠を置いて歩き出した。
マスターは静かにそちらに向いた。
「晴れたー!」
カラーンと涼やかな音を鳴らして開く扉の向こう。
青空の下で、ウエイトレス服の裾を華麗になびかせた才人は空を見上げて笑った。
それがこの二人の出会いの結末だった。
「そんでそれから家に帰って、少しでも女らしくなるために花嫁修業したりしてさ。料理をしようとすると文句を言ってくる両親と喧嘩したりしたんだ」
「ふーん」
「ってどうしたんだよ?」
話の最中から何故かデルフリンガーを抱えてゴロ寝し始めたルークに、才人が不審げな目を浮かべる。
「別にー。んで、それからソイツとはどうなったんだ?」
「それからたまーに店に寄るようになってさ。聞いてくれよ、陸の奴ってば思った通り結構女性の友達が多くてさ。幼女からお嬢様に、女子高生とか、お前はどこのギャルゲー主人公だって言いたくなるぐらい色んな知り合いがいてさ、ビックリしたなぁ」
なんか一回サムライ口調の外国人のオッサンとか来て仲良く談笑してたしー、と嬉しそうな口調で言う才人には分からない。
何故ルークが不機嫌そうな顔で、その才人の話を聞いているかというと。
(男は女心は分からないっていうけどさ……女も男心はわかってねえよなぁ)
「おーい、なんでそんなに機嫌悪いんだよ!」
「うるせえ! 知るか!!」
言えるわけが無い。
(話のリクって奴に嫉妬したなんて言えるわけねえだろう……)
(青いなー、どいつもこいつも)
と、デルフリンガーが鞘の中で思ったかどうかは誰も知らない秘密である。
【終】
【GHOST-HUNT】 予告
始まりは一つの質問からだった。
/*/
――質問をしよう。
明確な質問だ。
どんな愚鈍にも分かる問いかけだ。
故に悩む必要はなく、心のままに答えて欲しい。
……いいね?
君は、
いつ、
いかなる時で、
どのような行動で、
どのような思いで、
どのような言葉で、
どのように生きていると実感する?
/*/
きっかけは一つの噂だった。
/*/
噂があるんだ。
どんな噂だよ?
変な奴がいるんだ。
変な奴?
そう。ずっとログインしている変なPCの噂。
単なる廃人だろ? よくいるじゃねえか、親に寄生しているニートとかさ。
違うんだよ。そいつは普通じゃないんだ。そいつはずっとこの世界に居やがるんだ。
居るって……THE WORLDにか?
ああ。なんでもこの世界のことを何でも知っているっていう噂だ。
デマじゃね?
違えよ。実際に目撃証言が一杯あるんだ。そいつと会話したことがある奴もいるらしい。
へえー。ちょっち会ってみたいかも。どこに現われるんだそいつ?
月夜のある草原のエリアでうろついているらしい。けどな、会うなら気をつけたほうがいい。
気をつける?
ああ。そいつは単なるPCじゃないんだ。助言をすれば、傍観もして、時には敵対する。気まぐれな奴らしい。
それでそいつの名前は?
――闇の紫陽花 ハイドランジア
/*/
拡張は一つの存在からだった。
/*/
チック タック チック タック
――やめてくれ!
チック タック チック タック
やめてやめてやめて!!!
チック タック チック タック
もう嫌だ! 殺されないで殺さないで!!! ァアアア
チック タック チック タック
死なザクッ!くれよ! もうやめてくれよ!! 何が楽しいんだよ!!?
チック タック チック タック
嫌だ!! ころ ブシュッ! さないで!! しなせザシュッ! てくれ!!
チック タック チック タック
――開始時刻 AM17:46
記念に46回キルをし、1289回秒針が鳴り響いた。
/*/
導火線は無数の思いからだった。
/*/
ゆるさねえ!
くそったれが! ふざけやがって!!
仕返ししてやる! あの糞気取りの鎌野郎をズタズタにしてやる!!
絶対に仕留めてやるぞ! ハイドランジァ!!!
/*/
糸口は一つの情報だった。
/*/
「観察者?」
「そう呼ばれるPKが出たらしい」
「へえ……どんな奴?」
「さあ?」
「っておい! 話題振ってきたのはお前だろうが?!」
「ごめんごめん。でも、理由があるんだ……とっても不気味な理由がね」
「なんだよ?」
「そいつは"殺される者の前にしか現れない"、無機質にして、無骨にして、ただ殺される者の前に現れる槍使いだと」
「へぇ……そいつのPC名は?」
「"ランス" 重槍使いにはぴったり過ぎる名前だね」
/*/
そして。
/*/
それはただどこまでも無機質だった。
まず色がない、透明。
次に肌がない、骨格。
その次に顔がない、無貌。
その外装はワイヤーフレームと呼ばれる光の線だけで構造を構築し、どこまでも人間味を付加させるべき色付けと肉付けとテクスチャーの全てを引き剥がした清々しいまでの虚ろ。
ただ色を持つのはその手に握られた一振りの槍とその周囲に広がる空間。
カラーの中に紛れ込んだモノクロイラストのような圧倒的な違和感。
言うなれば線で描いた人型。
それがこの圧倒的なまでに美しい世界に、空しさを呼び込むように佇んでいて。
――静かに告げた。
これより、GHOST-HUNT(亡霊狩り)が幕を開く。
【Epiroge_紫陽花と揚羽蝶】
【Δ 隠されし 禁断の 大樹】
あれから。
あれから何日が経ったのだろう。
ゲームの中で、今だ発見されていないいずれロストグラウンドと呼ばれる大樹の下で座り込むハイドにはそれを知る術はなかった。
リアルの日にちなんて分からない。
リアルの時間なんて分からない。
ハイドは、彼はゲームの中で閉じ込められているから、その経過日数なんて分からなかった。
あれの日から誰とも会わずに、誰とも喋らず、過ごし続けていたからなおさらだ。
「静か……だな」
そよそよとランタイムに吹く風のエフェクトによって揺れる葉のざわめき以外に、このエリアに音はない。
「誰も来ないから当たり前か……」
ハイド以外に誰も知らないこのエリアにやってくる者なんて誰も居ない。
誰も音を立てずに、ただ心地よい静寂のみが支配していた。
誰にも邪魔されず。
誰にも話しかける必要もかけられる心配も無い。
ただ静かな一人だけの空間。
「孤独……か」
ただ思いついた言葉を、ハイドは吐き出した。
だが、その次の瞬間苦笑するように嗤う。
「こんなの……孤独じゃねえよな」
何故ならば。
彼が望めば幾らでもこのエリアから出ることが出来る。
エリアから出れば、おそらく自分を探しているであろう友人たちが居る。
話し合える相手が、接触出来る人がいる。
そんな人間は決して孤独じゃない。孤独なんかなりえない。
あの……接続を求め続けた少女の絶望には届かない。
「ぁ……は」
ハイドは額に手を当てて、息を吐き出した。
(彼女は……死んでしまったのだろうか)
あの日の事を思い出す。
幾ら話しかけても答えず、スピーカーのように騒がしい声が僅かに漏れた後、殆ど強制的に近いログアウトをしたようだった。
握っていたはずの手は虚空に掴み、目の前でアゲハは掻き消えた。
おそらくリアルで何かあったのだろう。
症状が悪化したのか。それとも、もう……
「くそ」
考えるな。
考えればもう想像が止まらないことを半ば無意識に悟り、ハイドは舌打ちをしながら目を閉じた。何度も何度も考えようとする度に同じ行動を繰り返していた。
それが逃避行動だということは理解している。
それが現実逃避だと知っている。
けれども、考え始めたら終わりなのだ。想像してしまったらもう立ち直れない。
それぐらい彼女のことが、彼女との別れの日々は記憶に焼きついていた。
好きか嫌いかと聞かれたら好きだと言えるぐらいには思っていた。だけどそれが友愛以上だったのかどうかなんて自分にも分からない。
恋愛を語れるほど経験はなく、ただ彼女に抱いていた想いはなんだったのか自分でも分からない。ただ言えるのは、大切だったということだけ。
ただ大切な人だったということだけ。
「……俺はどうしたいんだろうな」
そう呟いて、ハイドは無造作に片手を振った。
コントローラーを介さずに、思考にのみでコントロールパネルを呼び出し、その中に納められている一つのアイテムを取り出す。
降り注ぐ春の如き陽射しの中で、ハイドの手の中に冷たい白い風が集い集まっていく。
風を纏い、白い輝くような閃光と共に現われたのは目が覚めるような純白の大鎌。
「スノーフレーク……」
自らの身体を刃と化し、白き大鎌となった少女の名を呼びながら、ハイドはその柄を抱き寄せた。
「俺の行動は……正しかったのかな」
二度に渡り、迷いし自分を導いてくれた少女の幻想を思い浮かべながら、ハイドは呟いた。
「お前なら『間違ってないでっ』 って言ってくれるかな」
風変わりだった少女の口調を思い出しながら、ハイドは苦笑する。
握ったスノーフレークの握り手はひんやりと冷たく、熱に浮かされた思考を冷ましてくれるようだった。
――不意に音がした。
「え?」
ピコーンという聞き覚えのない音が聞こえた。
音に反応して見上げると、そこにはクルクルと一枚の封筒らしきオブジェクトが浮かび上がっていた。
「メールの受信……――メール?!」
不意にあることに気付いて、ハイドが慌ててスクリーンパネルを展開する。
パネルの仮想キーボードを叩いて、表示画面をメールの確認画面に移行する。
そして、その画面にあったのは――発信者:スワロウテイルの新着メール。
「アゲハ?!」
驚きながらも、パネルを操作して開封。
中身を確認する。
【ハイド殿へ
突然のメールに驚いているだろうが、これはスワロウテイルのプレイヤーではなく、主治医である私が書いている。憶えているかね。あの時、彼女のPCを代理で使用していた者だ】
「あの……医者から?」
予想してなかった内容に目を丸くしながらも、ハイドはさらにメールの下を見
る。
【そして、君がもっとも気にしているであろう事実を伝えよう。
スワロウテイルのプレイヤー――『あげは』は死んだ】
「なっ」
【いや、正確には死んでいないのだがほぼ死んだのと同一であるといってもいい。
呼吸筋はほぼ麻痺寸前まで進行し、唯一残っていた眼球運動までままならなくなっている。今の彼女は生命維持をされているだけで、話すことも見ることも出来ない状態だ。
ここまで進行すればいずれ死亡に到達するのは時間の問題だ。
そして、彼女が死亡すればこのゲームのアカウントは彼女の両親が解約するだろうから、今私が君に伝える最初で最後のチャンスだということになる】
「……死」
やはりという気持ちとふざけるなという気持ちがハイドの中で入り混じる。
【そして、君に伝えてくれと頼まれていた言葉を伝えたいと思う】
「言葉?」
『彼女は幸せだったと言っていた。
君に出会い、そして君を通じて知り合った全ての人たちに出会えて本当に幸せだと言っていた。
診察をする私の目からみても、彼女がTHE WORLDに触れ合っている数ヶ月は幸せそうに見えた。
彼女は今までの人生を、本来送るべき青春を、白い病院の中で過ごさなければならなかった。
最初こそ何人もの面会人が居たが、数年前から一人として現われなくなった。
そう彼女の両親でさえ、彼女を居ないものだと扱っていたのだよ。
彼女は生きる気力を失いかけていた。
動くことも出来ずに、話し相手もいずに、ただ動かずに読める朗読ソフトの本や映画などで現実逃避するしか出来なかった。
そんな彼女にTHE WORLDを薦めたのは私だ。
何かの癒しになれば、気晴らしになればいい。
その程度の考えだったのだが、彼女は本当に嬉しそうに過ごしていたよ。
もはや喋ることすらも面倒だと振舞っていた彼女が、診察に来る私に楽しそうに思い出を語るほどだった。
そして、彼女にその思い出を得させたのは間違いなく君だ。
だからあえて私は医者の領分を越えてこう言いたかったのだよ。
ありがとうと。
そして、彼女の最後の言葉がこれだ。
『私はあなたにあって救われました。我侭かもしれませんが、私のことを忘れないでください。ありがとう、ハイド』
』
そうして。
その言葉でメールは終わりを告げていた。
「……」
メールを読み終えたハイドはただ沈黙し……
いや、嗚咽を堪えて、拳を握り締めた。
「忘れろって……いう……ほうが無茶だろうが……」
吐き気を堪えるように口に手を当てる。
漏れ出る泣き声を、噛み殺す。
悲しむなと、彼女に願われたから。
ハイドは泣くことを堪えた。
そして。
彼は思う。
「忘れない……」
この世界に。
このゲームの中の世界の外側に。
「……これはゲームじゃないんだ」
彼の手の届かないところに確固としてリアルは存在し。
その中で生きている人が居ることを。
彼は……知った。
それが彼と彼女の物語の結末。
届かない位置に羽ばたいていった揚羽蝶を見送った、紫陽花の物語。
悲しく。
切なく。
そして、幸せだった物語の終わりである。
あとがき。
どうも初めまして。
このHPに投稿させていただいた箱庭廻と名乗っているものです。
本来のハイドランジアとはかなり色が異なる話でした、大変恐縮でしたが、このような話もありえるんじゃないかと考えて書きました。
時間軸としては無印完結から黄昏の腕輪伝説編までの間の話です。
孤高たるハイドランジア。
それは本当に孤独なのか? そう考えて作り上げたのがスワロウテイルという少女でした。
本当の孤独を知るが故に繋がりを求める少女は、ハイドランジアに何を残したのでしょうか。
これはありえたかもしれないIFです。
故に朱雀さんの作品にはまったくないかもしれない話です。
まだまだ精進が足りない内容でしたが、それらを掲載する機会を与えてくださった朱雀さんに感謝を。
読んでいただけた皆様に感謝をしてもしきれません。
ありがとうございました。
世界は優しい。
世界は厳しい。
不変のように存在しているけれど、それが幾つもの顔を持っていることを誰もが知っている。
そして。
これはそんな世界の顔の一つ。
残酷な思い出の断片。
誰も逆らえない運命の結末。
少年の記憶と少女の記録。
【.hack//Hydrangea】
Login_Error 接続少女と孤高の少年(後編)
「なぁ、一つ聞いてもいいか?」
「なに?」
久しぶりに二人だけで出かけた冒険先で、ハイドは尋ねた。
「なんでそんなに俺のメンバーアドレス欲しがるんだ?」
出会ってからこれまでアゲハは機会あるたびにメンバーアドレスの交換を、ハイドに提案していた。その口調は気が向いたらという感じで押し付けるようなものではなかったが、それでも言い出した回数は限りなく多い。
まるでそうしなければならないかのように、彼女はハイドとのメンバーアドレスの交換を提案していた。いや、ハイドだけではなく、彼が知る限り彼女が知り合った人全てとのメンバーアドレスを交換していた。
まるで繋がりを求めているかのように。
「欲しいから?」
ハイドの言葉に、小首を傾げて茶化すように答えるアゲハ。
「本当にそれだけなのか?」
その様子を少しだけ半眼になった目つきでハイドが見る。
真剣な眼差しと口調に少しだけアゲハは怯んだように言葉を止めて。
「ごめん、うそ」
と告げた。
「嘘?」
「……欲しいだけじゃないから。いや、欲しいっていうことで合ってるのかな?欲しい。求めてる。必要。ないと駄目。いや、依存している? 違う違う違う、もっといい言葉があるはず……」
考えるように、まるで吐き出す言葉を考えるように、ブツブツとアゲハは単語だけの独り言を洩らした。
「おい?」
単語の羅列のように言葉を吐き出し、ログを刻み続けるアゲハに少しだけ心配になって声を掛けると。
「そうだね、こういうべきかな」
「なにが?」
「メンバーアドレスが欲しい理由」
そう告げて、アゲハは足を踏み出す。
始めて一緒に言ったエリアと同じ晴れ渡った草原の中に足を踏み出して、楽しげにサクリと音を立てる草花にアゲハが笑った。
「ねえハイド。この世界って広いよね」
「……え?」
「現実から見れば箱庭のように小さな世界だけど、中から見ればどこまでも広がっている世界」
ザァッと一定タイミングで吹く風のエフェクトに草原が揺れて、アゲハの白いローブがまるで蝶の羽のように揺らめいた。
「私はこの世界がとても好きだよ」
「俺も好きだな」
アゲハの言葉に同意するように、ハイドもそう告げた。
好きだ。
ただこの虚構と電子で構成されただけの仮想世界であっても、ハイドにとってそれはかけがえのない思い出と居場所を持った世界だから。
その心には偽りはなかった。
「それでね。私はここで生きている……そう生きている人が好きなの。善人でも、悪人でも、綺麗な心を持っていても、汚い心をもっていても、例えPKという形でしか関われないような人でも、わたしは大好きなの」
そう告げて、アゲハはハイドに振り返った。
「実はね、ハイドに会う少し前にね。私、PKされたの」
「は?」
「本当に初めてログインしてね。親切そうな人だったから一緒に冒険に行ったの。ハイドも知っての通り、私操作苦手だからね、その人途中からいらいらしてきたの」
だから、ダンジョンの奥でキルされた。
だから暗いダンジョンは嫌いなのとそう彼女は告げた。
「むかつく、とか。死ねとかいわれてね、ばっさり斬られちゃってゴーストになっちゃったの。ゴーストになった後でもへたくそとか、やる資格ねえよとか、色々怒られちゃったよ」
「それは……」
その内容に、ハイドは絶句した。
PKをする奴には何度も遭遇している。PKを返り討ちにしたこともあるし、PKされて傷ついた人もハイドは少なからず知っていた。
知っていたとしても気分はよくないし、どうしょうもなくショックな内容。
「けどね、私はそれでも嬉しかったの」
「え?」
「私は罵倒した人は、私をPKした人は私を見てくれた。構ってくれたんだよ。無視されたんじゃないんだよ」
そういうアゲハの言葉は本当に嬉しそうで、ハイドは戸惑った。
そして思う。
彼女のリアルはどんなのだったのかと、少しだけ考える。
けれども、そんな間にも彼女の言葉は進む。
「でも私は別にMとかじゃないから、進んでPKされる気は無かったの。だから、今度はもっと優しい人を探したんだ」
「それが……俺か?」
「うん。君に優しくされて一杯感謝している人が居たから、こんな私でも優しくしてもらえるかなって思って」
確かにハイドは何度も初心者サポートやPKからPCを助けたことがある。
偶にタウンやエリアで見かけたら楽しげに会話を交わすぐらいだ。
「……幻滅した?」
「そんなわけない。自分が頼られて嬉しくないわけがないだろ?」
純粋に自分を信じてくれたのなら出来るだけ応えたいとは思う。例え打算だったとしても押し付けじゃなく、ただ自分という存在を信用してくれた結果なのだから。
「そっか。それならよかった」
本当に安心したように、彼女は少しだけ会話を止めた。
長話で疲れたように、少しだけ遅れた口調で言葉が告げられる。
「それでね。私は欲しかったの」
「なにが?」
「人との絆――接続した証が」
接続?
奇妙な言い回しにハイドが眉を潜め、それでもアゲハは気付いていないように告げる。
「知ってる? 人ってね一人だと単なる点なんだよ。ポツンと淋しく書かれた点、それがね他の人と知り合うことによって線になり、一杯知り合いが出来ると網……つまり世界になるの」
その言葉の内容はまるで呪文のようだった。
詳細は分からずとも意味だけが分かる、そんな言葉。
「私はね。誰かと接続したかったの、ブツブツと繋がりが切り離されて、またたった一人の点になるのが怖いの。誰にも知られないで消えていくのが怖いの、誰にも構われない、誰からも話されない、誰とも話せない孤独は……いやなの」
その言葉はまるで血を吐くようだった。
彼女特有の棒読みのような口調から発せられる言葉は、どこまでも淡々としているからこそ恐ろしく感じた。
「孤独は辛いよ」
その言葉はハイドに向けられていた。
「孤立は死にたくなるよ」
その目はハイドに向けられていた。
「孤高なんて……寂しいに決まってる」
それは断言するような文面だったが、その口調には実感が伴っていた。
「だから……俺のメンバーアドレスを求めたのか?」
同じ境遇だと思って、同じ地獄から救い上げたくて。
彼女はハイドに会いに来たのだと、そう思えた。
「でも、君は一人じゃなかったから必要なかったみたいだけどね。私にはもう無い思い出って奴で繋がってるんだね」
馬鹿だなー私と笑うアゲハに、ハイドは同調して笑うことは出来なかった。
決して聞き逃せない言葉があったから。
「"もう無い?" それってどういう意味だよ」
「文字通りだよ。全部切り捨てられちゃったから……」
「――切り捨てられた?」
「そうだよ。忘却っていう名前のヤスリでね」
そういってアゲハは笑う。
モーションに設定されたとおりの決まった笑顔だけれども、ハイドにはまるで泣きそうな笑顔に思えた。
「現実はね……ログなんて残らないから。繋ぎ続けなければ、いつか切り落とされるの。記憶と一緒に。ブチンブチンと繋がっていた回線が千切れるみたいに、関係は無くなってしまうの」
そういうアゲハの言葉は全てが分かり難く、曲解しているような内容だったけれども、目の前で語られるハイドにはなんとなく意味がわかった。
「ねえ、ハイドは知ってる?」
「誰からも忘れられたら、その人は居ないことになるんだよ」
そう告げる彼女はまるで別人のようだった。
声は変わらず一定で、外装は何の変化もしていないけれども、その向こう側にいるであろう彼女の気配がハイドにはまったく違うように思えた。
「アゲ……ハ?」
明るく振舞っていた彼女とは別人のようで。
ハイドは思わず目を疑いながら何か言おうと近づこうとして――気付いた。
「アゲハ!!」
ハイドが叫んだ先。
ハイドに振り向いて立つ彼女の背後に、巨大な影があった。
巨大な甲冑が自律可動したかのようなモンスター――ジェネラルアーマー。
本来モンスターが出現するはずの魔法陣を解放していない以上、フィールドで放浪するはぐれモンスターだろう。
その巨大な姿がアゲハの後ろに立っていた。
「え?」
アゲハは振り返り、ようやくその姿に気付く。
「逃げろっ!」
ハイドが足を踏み出す。
「――"アプドゥ"!」
そして、本来双剣士には装備出来ないはずの重装備【鬼の手】に刻まれた呪【アプドゥ】を起動させて、倍速化。
文字通り風を切り裂くような速度で走るけれど――
間に合わない。
「あ」
ぎこちなく逃げようとして、けれども途中で足を止めてしまったアゲハを。
――容赦なくその鉄槌が殴り飛ばした。
目の前でアゲハの身体が宙を舞い、まるでぼろくずのように吹き飛んだ。
「テ、メエ!!!」
その光景を見つめ――否、凝視しながら、目の前で武器を振り抜いた鎧に瞬間移動のような速度で迫り。
"疾風荒神剣"
嵐というのも生温い瞬くような斬舞に、ジェネラルモンスターが幾重もの輪切りになって消し飛んだ。
そして、倒したモンスターが光に昇華されるのも見届けず、ハイドは吹き飛ばされたアゲハに駆け寄った。
「アゲハ! 大丈夫か?」
メンバーアドレスを取得していないため、パーティを組んでいないハイドにはそのHPが分からない。どれぐらいのレベルかも知らない。
まだ低レベルのままならば一撃で即死していてもおかしくなかった。
そして、駆け寄ったアゲハは……
「ふー、即死はしてなかったみたいだな」
「……びっくりした」
灰色にならず、なんとか身体を起こしているアゲハの姿に安堵するハイド。
ごそごそとスクリーンメニューを操作して回復アイテムを取り出そうとするハイドを見ながら、アゲハは笑った。
「ありがと」
「え?」
「心配してくれて」
「……いや、そりゃあな」
ストレートな言葉に、ハイドが少し照れたように頬を書いた。
「でも、びっくりしたよ。いきなりこう……」
その瞬間、不意にアゲハの言葉が止まった。
「どうした? アゲハ?」
「……」
「おい?」
そして、ハイドの言葉にアゲハは答えなかった。
まるで彫像のように。
ただ動きが止まっていた。
それから。
一時間立っても、二時間立っても、アゲハは動かなかった。
なにかの誤作動かそれともリアルで寝落ちでもしたのかもしれない。そう考えて、ハイドはアゲハをモンスターの出ないダンジョンの入り口エリアまで運び込んだ。
そして、アゲハがプレイするのを待ちながら、入り口エリアでハイドは眠った。
そして目を覚ましてた時にも、アゲハは動かなかった。
置かれた場所から彼女の外装はぴくりともしていなかった。
丸一日近くたったというのに彼女の外装は動かされていなかった。ログアウトもせずに。
「どうしたんだよ……一体」
呻くように呟くが、それに誰も応えない。
「リアルでトラブったのか? ならメールで……いや」
彼女のメンバーアドレスを所有していない自分ではショートメールすらも送れないということに気付いた。
「くそっ」
唸るように頭を掻きながらハイドは少し考えて――決意する。
「悪い。もし俺が居ない間に戻ってきたら、マク・アヌのカオスゲートで待っててくれ」
彼女のボイスチャットログに残るようにハイドは告げて、その場から飛び出していった。
【Δサーバー 水の都市 マク・アヌ】
走った。
ひたすら走った。存在するかもどうか分からない心臓を動かして、ただ現象として起こる荒いと息を大気無き虚構世界に吐き散らしながら、ハイドは走った。
カオスゲートを突破し、ただひたすらに走りぬいた。
そして探す。
知り合いの顔を、自らが信頼する友人たちの姿を。
(くそったれ!)
BBSには既に情報を書き込んだ。
スノーフレーク。彼が使う符号によって、マク・アヌに誰でもいいから来れるように布石は打った。
ここで待っていればいずれ来る、そういう確信がある。
けれども焦燥感がそれを許さなかった。
(早く早く早く)
安心なんて一秒も出来なかった。
だから動く。
だから走る。
倍速呪紋を発動させ、賑わう人ごみの中を縦横無尽に駆け抜けながら知り合いを探す。
誰一人でもいいのだ。
たった一人でいいのだ。
あの少女は、彼女は、気のいい彼の友人たちとメンバーアドレスを交換していたのだから。
一人でも見つければ事足りる。
だから――
「ハイド!」
そう呼びかける紅い衣と帽子を纏った少年の姿を見た瞬間、周りのことも忘れてドリフトじみた急停止をした。
「カイト?!」
慌てた様子でハイドの元に駆けつけてくるのは色違いの外装の少年。
蒼炎のカイト。
そう呼ばれるハイドのかけがえのない友人の一人だった。
「見つけた! 探してたんだよ、ハイド!!」
「探してた?」
おかしい。
それは順序が逆ではないのか?
「ちょっとまて。カイト、お前は俺が書いたBBSで来たんじゃないのか?」
「え? いや、それは知らないけど……」
ハイドの言葉に一瞬不思議そうにカイトが首を傾げて、しかし次の瞬間には我に帰ったように言葉を吐き出す。
「いや、そんなことよりも! ハイド!! "アゲハちゃんはどうしたの?!"」
「は? なんでお前がそのこと知ってるんだよ!?」
まだアゲハに起こった異変のことは誰にも教えてない。いや、説明する暇もなかったというべきか。
「そんなことはどうでもいいから、もし君が知ってるなら説明してくれ!」
「あ? ああ」
いつになく強引な態度でそう告げるカイトには有無を言わせない迫力があった。
それに応じてハイドはウィスパーモード(対象者以外には聞こえない)に切り替えて、同じくウィスパーモードに切り替えたカイトに起こった異変のことを説明する。
そして、その説明を聞き終えたカイトは……
「やっぱり……本当なのか……」
まるで何か絶望するような声音でそう呟いた。
「ガセ? どういう意味だよ、それ。カイト、お前何を知ってる?」
「……」
ハイドの問いに、カイトは沈黙する。
答えたくない……いや、答えてもいいのかと悩むような態度でカイトは口を開かず。
「――答えろよ!」
その態度にハイドが声を荒げて叫んだ。思わずカイトの襟首を掴み、叫んでいた。
いつの間にか、ウィスパーモードから切り替わったのか、周りを歩く人ごみがギョッとした態度でハイドたちを眺めているが、ハイドはまったく気にせず、カイトもまたそれに目もやらない。
「……メール」
「は?」
「アゲハちゃんのメンバーアドレスからメールがあったんだ……」
「え?」
予想もしていなかった言葉に、思わず襟首を掴んでいた手を離すハイド。しかし、そんなハイドの態度にも構わずカイトはこう告げた。
「多分ボクはアゲハちゃんがどうしてそうなったのか大体知ってると思う。いや、ボクだけじゃなく、他の皆も知ってるはずだ」
「知ってる? ならアゲハはどうしたんだよ? 教えてくれよ」
「それは……出来ない」
「は?」
「ボクの口からじゃ……君に伝えちゃいけないんだと思う……」
そう告げるカイトの声音は震えていた。
まるで何かとてつもなく辛いことを耐えているかのように。
泣き出したくなるような声だった。
「ハイド。カオスゲートに行くんだ」
「え?」
「――"アゲハちゃんがそこで待ってる"」
「……どういうことだよ」
意味が分からない。
突然アゲハが動かなくなって、その理由を探るために直接メールを送れる他の連中を探して、それでカイトを見つけて、でもカイトはその理由を知っていて、それを知るために動かなくなった張本人のアゲハがカオス・ゲートに居る?
なんだこれは。
まるでチグハグなまま止めたボタンのようだ。
進めば進むほど誤差が出て、歪んで、よく分からなくなる食い違いだ。
「いけば……分かるのか?」
「うん」
カイトが頷く。
「分かった……正直まったく状況が解らないが、それで全部スッキリするんだろ」
「間違いなくね」
「なら行くわ。サンキュ、カイト。今度なんかプレゼントするよ」
そういってハイドが走り出す。
その姿を見送りながらカイトは微笑んだ。
虚ろに。
悲しげに、涙を流さない外装の向こう側で、カイトのリアルは嗚咽を洩らした。
誰にも気付かれないように泣き叫んだ。
【Δサーバー 水の都市 マク・アヌ】
それはそこに立っていた。
その少女はそこに佇んでいた。
真っ白いローブを身に纏い、つい数十分前までハイドの傍で彫像と化していたスワロウテイル――揚羽蝶の名を持つ少女がそこにいた。
「アゲハ!?」
ハイドが叫んだ言葉に、アゲハはぎこちなく動きで振り向いて。
「――"君がハイドかね?"」
「え?」
声音はそのままに、まったく違う口調がアゲハの口から飛び出した。
そして感じる雰囲気が自分の知る彼女とはまったく違うことに気付いた。
「誰だ……アンタ?」
「すまない。私はこのPCを使っているものの"主治医"だ」
「……主治医?」
主治医。
つまり医者。
「アゲハは病気なのか?」
「ああ。一応彼女も画面を見ているが今の彼女には操作は困難なため、代理で操作している」
「困難……」
一体アゲハのリアルはどうなっているのか。まったく想像が出来ずに、ハイドは顔を曇らせた。
「それで一応確認しておきたいのだが、君がハイドで間違いないかね?」
「あ、ああ」
「そうか……」
ハイドが頷くと、アゲハは――いや、アゲハの外装を使っている者は小さく息を吐き出したように思えた。
「済まないが、二人きりで話せる場所を用意してもらえないかね?」
「え?」
「君もこの子がどうなっているのか知りたいだろう? いや、君には知ってもらいたいと彼女が希望しているのだよ。承知してくれるかね?」
アゲハの声を持って、おごそやかな男性の口調でそう告げる誰かは穏やかだけれども強い威圧感を持っていた。
その言葉に、ハイドはしばらく躊躇うように眉を潜め、少しだけ思案するように目を閉じて。
「わかった」
静かに頷いた。
「なら今から言うエリアに付いてきてくれ。転送方法は分かるか?」
「一応マニュアルには目を通してある」
「じゃあ――」
そういって、ハイドは三つの単語を呟いた。
【Δ 隠されし 禁断の 大樹】
それはどこまでも広がる巨体だった。
見渡す限りの草原の中央にたった一本だけ巨大な木がそびえている。
まるで天を支えるかのように巨大で、まるであらゆる人々を抱擁するかのように巨大な大樹がそこにあった。
より多くの太陽の恵みを受け止めようと発達した枝葉の間からもれ出る光はどこまでも幻想的で、その壮大な景色は現実感がなく、ただ美しいとしかいいようがなかった。
それは後の世でロストグラウンドと呼ばれるエリアであり、後に一人の撃剣士の女性が己の剣を手に入れる場所。
だが、そんなことは今のハイドと、それに相対する者にとっては関係なかった。
「それで」
いつか共に来ようと考えた場所で、誘おうと思っていた少女の外装を使っている人物にハイドは言葉を吐いた。
「アゲハは……スワロウテイルのプレイヤーはどうなっているんだ?」
偽りは許さないとばかりに強い視線で、目の前に立つ少女の外装を睨む。
その視線に、外装を使う者は静かに告げた。
「ALS。というものを知っているかね?」
「ALS?」
「――【Amyotrophic Lateral Sclerosis】 日本では【筋萎縮性側索硬化症】と呼ばれている。彼女はその患者だ」
「筋萎縮性側索硬化症? ……それはどういう病気なんだ?」
「端的にいえば全身の筋力低下及び筋肉の萎縮だ」
「筋力の低下に筋肉の萎縮って……それは……」
「そうだ。彼女はもはや病室から一歩も動けないし、自身の意思で腕を上げることすら不可能な状態だ。今それどころか自立呼吸も出来ず、今は人工呼吸器で生命維持している」
「なっ」
想像もしなかった言葉に、ハイドは絶句する。
けれども、それを語る者は言葉を止めずにさらなる事実を告げた。
「発症確率は10万人に2人。好発年齢は40代~60代で、彼女のように十代の若さで発病したのは世界でも稀なケースだ。そして、もう発症してから五年近くだ。この意味が分かるかね?」
「そ、れは……」
それはどんな苦痛だったのだろうか。
それはどんな地獄だったのだろうか。
本来味わうはずの青春を小さな病室でどこまでも無機質に過ごしていく日々は、その辛さはハイドには想像することも出来ない……いや、出来るわけがなかった。
出来るなどとほざくだけでも侮辱になる。
「だから、か」
あんなにも人と話すことが嬉しそうだったのは。
あんなにも風景を見て楽しげだったのは。
あんなにも人に構われて幸せそうだったのは。
その全てが、彼女の夢想していた夢そのものだったのかもしれない。
「それは……」
そんな彼女の心を想像しながら、ハイドは尋ねた。
「なんだね」
「いつ治るんだ?」
彼女はいつか元気になれるのだろうか。
またいつか同じようにこの世界で会えるのか。
そんな思考と願望が入り混じった問いを。
「――無理だ」
その医者は切り捨てた。
「え?」
「ALSは現代医学ではまだ根本的な治療法がない病気だ」
「な」
それは不治の病ということなのか?
「精々出来るのは原因物質と思われるグルタミン酸の放出剤の投与と人工呼吸器による延命だけだ。軽度ならば一生動けないだけだろうが、重度の進行ならば呼吸筋麻痺で確実に死ぬ」
「まてよ」
「そして、彼女は重度の患者だ。遠からず死ぬことが決定された者だ」
「――待てつってんだろ!」
言葉を続ける医者の言葉を遮って、ハイドが叫んだ。
「これを"アイツも見てるんだろ?!" なんで! なんでそんな希望を奪うようなことを言うんだよっ!」
もはや絶叫だった。
聞きたくもない事実の羅列に、ハイドは耳を塞ぎたい気持ちを堪えて叫んだ。
人が死ぬ。
そんなのはハイドにとって見たことも、想像したくもない光景だった。
否。ありえないとすら半ば思っていた。
何故ならこの世界は彼にとって――"ゲームの中だから"
けれども、死ぬことが約束された少女の外装を使う者は事実を告げる。
「そうを伝えることを彼女に頼まれたからだ」
「……え?」
「君には隠し立てをしたくないと、迷惑かもしれないけれど全て知って欲しいと頼まれた。だから私はこうして彼女のPCを借りて、君に伝えている」
「アゲハ……が?」
「そうだ」
そう告げて、目の前のアゲハの外装はゆっくりと頷いた。
そして、それから少しの間だけアゲハの外装が動きを止めた。
呆然としているハイドの前で、僅かに小さな雑音じみた声が漏れ出ると、僅かな間を置いてアゲハの外装は告げた。
「彼女と替わる」
「え?」
「好きなだけ話しなさい。"時間は残り少ないが"」
そうアゲハの外装が告げると、不意にガクリとした形でその挙動が停止した。
「アゲハ?!」
その挙動に思わずハイドが、その手を掴む。
そして、その瞬間その外装が緩やかにスイッチを入れ直されたかのように揺れ動いた。
「ハ……イド?」
アゲハの唇がゆっくりと動いて、そう呟いた。
「アゲ、ハか?」
「う……ん」
ゆっくりとだけれども、彼女は肯定の言葉を告げた。
先ほどまでと同じ声、ただ告げられる声のテンポが遅いだけ。それだけの違いしかないのに、ハイドにはそれがアゲハ……そう呼んでいた少女のものだということが分かった。
「話しても……平気なのか?」
「う……ん」
たった一文字発するだけでも少しの感覚があった。
ハイドは想像する。
言葉を吐き出すのには息を吸って、吐くという行為で声に変換しなければいけない。息を吸わずにして喋り続ければ酸欠になるだけだ。
彼女はたった一文字の言葉を呟くにも、息を吸わなければならないほど呼吸が出来ないのだろうか。
それはどんなに辛いんだろうか。
それはどんなに難しいんだろうか。
ただ想像するだけでも吐き気がするような状態になりながらも、アゲハは喋ろうとしている。
だから。
ハイドは――
「アゲハ……」
彼は吼え叫びたい気持ちを必死で堪えながら、静かに彼女に告げた。
「ゆっくりでいいから、さ……話そうぜ……」
ハイドは意識して作り上げた笑みでそう語りかけた。
油断すれば泣きたくのを懸命に我慢して、彼は笑みを浮かべる。
「あり……が……とぅ」
掠れた言葉。
決して変化していない外装の向こうで、ハイドにはアゲハが微笑んだような気がした。
そして。
ハイドとアゲハは言葉を交わし始めた。
たった数回の言葉でも数分以上が掛かる、まともに会話も成立しないイライラするほどゆっくりとした会話。
それでもハイドは何も言わずに返事を返し、アゲハは掠れるような声で言葉を吐き出す。
それで色々なことがわかった。
彼女はまるで憶えていてもらいたいように、ハイドに自分のことを話した。
――自分の声はもう本当は出ないのだと。
今の声は発症前の自分の声をサンプリングし、人工呼吸器に取り付けた機材によって変換している偽りの声。
全てが偽り。
虚像で構成された外装と同じように声すらも虚構であり、ある一つを除いて全てが誤魔化しなのだと彼女は告げた。
「ある一つって……なんだ?」
「わた……しの……なま……え」
「なまえ?」
「……すわ……ろぅ……ているは……」
PC名のスワロウテイルの由来は、リアルの自分の名前から名づけたのだという。
「ほん……んとぅ……に……あげはって……なまえなんだよ……わ……たし……へんかな?」
「そんなわけねえよ……良い名前じゃないか……」
「だからね……きみに……みん……なに……よばれる……たびに……うれし……かったの……」
リアルで、私の名前を呼ばれることは殆どないのだから。
そう悲しげにアゲハは呟く。
「じこ……まんぞく……か……な?」
「……そんなわけ……ねぇよ……絶対にそんなことは……ねえよ」
一言応える度に、ハイドは絶叫したい自分の衝動を押し殺していた。
喋るなと。
もう休めと言ってやりたい。
アゲハの言葉を聞くたびに、搾り出すようなその声の低さを聞くたびにそう言いたくなる。
けれども、それは出来ない。してはならないのだとハイドは理解してしまう。
彼女の望みを叶えろと、ハイドの理性が、人の感情を理解する賢しい知恵がそう告げる。
だから。
だから!
「あり……がとぅ……」
「……っ」
彼女から感謝の言葉が漏れ出る度に、ただ彼女の外装の手を握り締めるしかハイドは耐える術が分らなかった。
単なるデータの塊。
CGとテクスチャーで構成された紛い物。
現実ではない仮想世界の産物。
けれども、その産物の手を握るハイドにとってそれら全てが現実だった。
いや、"彼にとってこの世界は現実なのだから。"
「……アゲハ」
アゲハの手を握り締めながら、ハイドは静かに呟いた。
「な……に?」
ハイドの顔は俯いていて、目線すら動かせないアゲハにはその表情が分からない。
「俺は……」
囁くように、振り絞るようにハイドは言った。
「俺には……リアルがないんだ」
「……え?」
「お前の居るリアル……には俺は存在しない。俺はこの世界だけの……存在なんだ」
彼は告げた。
「俺は……この世界でしか生きれないんだ……」
隠していた事実を。
「だから……俺は……」
リアルのお前と出会うことも、リアルのお前の顔を見ることも出来ない。
そう告げようとして――
「……よか……った」
アゲハの言葉に硬直した。
「え?」
「き……みは……やさ……しぃ……このせ……かいで……いきて……いける……んだね」
掠れた声。
か細い声だけれども、彼女の声は嬉しそうに笑っていた。ハイドにはそう思えた。
「なんで……嬉しそうなんだよ……俺は……お前に何も出来ない……ってことなのに……」
俺には何も出来ない。
彼女の見舞いに行くことも。
彼女と直に話すことも。
死んだ彼女の葬式に行くことも。
死に逝く彼女に対して、この世界でしか活動出来ないハイドはどこまでも無力だった。彼はそう思った。そう思っていた。
「……ちがう……よ」
けれども、彼女はそれを否定する。
「きみは……やさ……しく……して……く……れた」
彼女はそれを弁護する。
「きみは……とも……だち……に……なって……くれ……たよ?」
彼女は……微笑んだ。
変化しない外装の向こうで。エモーションコマンドも入力されず、彫像のような外装の向こうで、端末の先にいるリアルの彼女は微笑んだ。
ハイドにはそう思えた。そうとしか思えなかった。
「……あげ……は……」
そして。
「おれは……お前に……なにをして……やれる?」
震える声で、震えた手で、ハイドは告げる。
弱り果て、力を失い、ただ死に逝く少女に向けて、彼は尋ねた。
何か一つでも。
どれか一つでも彼女が喜んでくれるものを捜し求めた。
「……き……ろく……」
「え?」
「……ひと……つ……だけで……いい……から……のこ……させ……て」
声が霞んでいっているような気がした。
聞き取りにくく呟かれた声は、チャットログという文面でハイドの目に残った。
「き……ろく?」
記録――メモリー。
あるいはログ。
この仮想世界の中で残る情報の残滓。それをアゲハは求めているのだろうか?
(……違う)
彼女が求めているのは記録なんかじゃない。
彼女が欲しいのは情報なんかじゃない。
――彼女は言っていたじゃないか。
「文字通りだよ。全部切り捨てられちゃったから……」
「そうだよ。忘却っていう名前のヤスリでね」
「現実はね……ログなんて残らないから。繋ぎ続けなければ、いつか切り落とされるの。記憶と一緒に。ブチンブチンと繋がっていた回線が千切れるみたいに、関係は無くなってしまうの」
「"誰からも忘れられたら、その人は居ないことになるんだよ"」
(そうだ)
ただ彼女が恐れているのは……忘れられること。
ただ彼女が望んでいるのは消えない絆。
千切れない接続。
(それなら……)
「アゲハ」
ハイドは彼女と繋いだ片手をそのままに、空いた片手で出現させたスクリーンパネルを操作した。
幾つかの仮想パネルを指で叩き、決定キーを押し込む。
「……え?」
アゲハが戸惑った声を上げた。
今彼女の目にはある画面が映っているはずだ。
「アゲハ……お前が望むなら……ボタンを押してくれ」
その画面とは……
「いい……の?」
「ああ」
『スワロウテイルのメンバーアドレスを取得しました』
メッセージが出現した。
ただ今まで誰一人として貰わなかったメンバーアドレスを取得した証拠を。
そして、誰一人として手に入れることが出来なかった【孤高】のメンバーアドレスを、アゲハ――スワロウテイルは手に入れた。
たった一つだけど、ただ世界で一人、孤高の少年と少女は接続した。
想いじゃなく。
感情でもなく。
記憶でもなく。
ただ情報という電子で構成された絆が二人の間に繋がれた。
「……あ」
それに、アゲハは静かに声を上げた。
「こ……こう……じゃな……なくなったね」
「構わねえよ。今日で【孤高】は廃業でも構わない……」
目の前の少女が喜んでくれるなら。
この世界の先に居る少女が喜んでくれるなら、誰かが付けた称号なんてどうでもいい。
そう、どうでもよかったんだ。
「ハ……ィ……ド」
「なんだ?」
掠れた声。
もう蚊が鳴くぐらい小さな声に、ハイドは問い返した。
そして、少女は――
「す……き……」
自分の想いを告げて。
「え」
「……」
「今なんて……」
「……」
「言ったんだよ」
「……」
「アゲハ」
「……」
「アゲハ?」
「……」
「アゲハ!?」
彼女は
――世界から消えた。
繋がる。
繋がる。
接続する。
結び付く。
手を絡めるように、唇を重ねるように、交尾をするように、人は知り合って、関係を持ち、心を繋げ、時には断絶し、時には強固になり、絡まりながら結ばれていく。
孤独は点であり、他者である点と関係という糸を繋げることによって線となる。
結ばれた点と線は幾重にも重なり、いつしか網となって世界を構築していく。
人間の思考がシナプス結合という名の回線によって構成されるように、現在世界中に張り巡らされたネットワークはもはや一つの生き物であるといっても過言ではない。
PCという名の無数の顔を持ち、多元なる言葉を重ね、時には意地悪と時には願いを叶える存在。
高度発達した電子ネットワーク。
それらが人間にとって欠かせない文明となった世界。
二度に渡るネットワーククライシス【冥王のキス】、【冥王再臨】という未曾有の危機を乗り越えた世界。
そこにそれは在った。
【The World】
"世界"と名づけられた大規模MMORPG。
全世界で2000万人に達する大規模オンラインゲーム。
これはその小さな世界の中であったかもしれない物語。
世界に閉じ篭められた一人の少年が、ただ唯一手にした少女の記録。
孤高の少年に唯一?がれた少女の断片である。
【.hack//Hydrangea】
Login_Error 接続少女と孤高の少年(前編)
The World。
それは西洋ファンタジーを題材にしたMMORPGだ。
その中に生きる人々――PCという名の外装を得た人々は剣や槍、杖や槍を携え、甲冑やローブに身を包み、思い思いの考えや願いを持って、作り上げられた世界に足を運ぶ。
ある者は武装を固めて凶悪なモンスターや難解なダンジョンを踏破することに勤しみ、とある者は逆に町行く人々と会話を楽しむことに精を出し、とあるものはせっせと情報やアイテムを収集しては金を稼ぐ行商人を演じたりもする。
オンラインゲームにはシナリオはない。
端末の向こう側にいるのは現実の人間であり、誰かが描いた筋書きなどはなく、一人一人の思考や行動を持って世界は彩られ、物語は作り上げられていく。
主人公など居ない。
シナリオなんてない。
ただあるのは舞台のみで演じられる演劇の内容は役者が決めるだけ。お互いが決めた役割を演じ、作り上げられていく箱庭の中の世界。
されども、その主人公無き舞台の中でも特別は必然と存在する。
どんな社会であっても人に格差が出来るように、どんなに平等を謳おうとも差が生まれ、個性という名の違いがあるように、その世界には特別になった者達が居た。
かつて攻略不可能と呼ばれた幻想竜【ザワン・シン】を打倒し、その栄光と偉業を称えたとある詩人によって名づけられた【フィアナの末裔】――【蒼天のバルムンク】・【蒼海のオルカ】
The Worldに隠された【最後の謎】を解き明かしたとされる伝説のPCグループ【.hackers】
いつしか誰かが名づけ、最強と呼ばれる伝説のPC【蒼炎のカイト】
あらゆる未来を知ると噂をもち、未来を予言するとされる助言者【闇の紫陽花・ハイドランジア】
そして、The Worldにおいての他PCとの繋がり――アドレス交換を行わず、最古たるβ版――【フラグメント】から参加し続け、今なおプレイを続けるヘビーユーザー。
【孤高】の字を持つ双剣士・ハイド。
彼の前に、ある一人の少女が現れたことからこの物語は始まる
【Δサーバー 水の都市 マク・アヌ】
「――メンバーアドレス交換しよっ」
「は?」
その日その時、Δサーバールートタウンの象徴である大橋の下。
一人静かに河を眺めてぼうっとしていた青色の帽子を被った少年タイプの双剣士が、不意に掛けられた言葉に声を上げた。
声をかけられた方角に双剣士の少年が振り返ると、そこには白いローブを着た呪紋使いの女性……というにはあどけない顔をした外装のPCが立っていた。
美人というよりは可愛く、凛々しいというよりも可憐と呼べる少女。
だがしかし、それよりも少年には気になっていたことがあったので口を開いた。
「いや……誰、あんた?」
そうなのだ。
目の前にいる呪紋使いの少女の顔に、双剣士の少年はまったく見覚えが無かった。
おそらく初対面であろう少女に対し、彼は胡乱げな表情を浮かべる。
「あのさ」
「ん?」
「あなた――【ハイド】っていうんだよね。孤高のハイドで間違いない?」
少女は妙に遅く、間延びした口調でそう告げた。
「……」
双剣士の少年――ハイドはその言葉に軽くうんざりしたような表情を浮かべた。
とある事情ととある思いがけない不可避事態で貰いたくも無い高名な二つ名を得てしまった彼に対し、同じような対応をしたPCはうんざりするほど居た。
どこぞのアイドルの如く熱狂的に言葉を交わそうとする者、意味の判らない嫉妬で妬んでくる者、何を勘違いしたのか積極的に取り入ってそのお零れを預かろうとする下種など、様々なPCがその外装越しに言葉と意思をぶつけてくる。
幸いそれらのことなんてまったく気にせずに付き合ってくれる友人たちがいるからハイドは明るく楽しんでいられるが、それでも思い出したようにこうしてやってくるPCに閉口するのもしょうがないだろう。
「ああ。俺がハイドだけど……」
少しうんざりした態度で声を出しながら、ハイドが少女を見上げる。
「なら知ってるんじゃないか? 俺のポリシー。"俺は誰のメンバーアドレスも持たないし、渡さない"ってさ」
過去誰一人としてメンバーアドレスを手に入れずに、同時に渡さずに、ソロオンリーで過ごし続けてきたが故に名づけられた二つ名が【孤高】
そのスタイルはかなり有名になったと思っていたのだが……
「え? そんなポリシー持ってたんだ。私はてっきり……」
「てっきり?」
「――友達の出来ない淋しい人だと思ってたんだけど」
「違うわっ!!」
その言葉に、思わず全力スピンチョップを見知らぬ少女Aに打ち込むハイド。
――唐突だが。
タウン内でのPK……すなわちプレイヤーに害する行為はシステム上不可能となっている。
つまり武装をしていてもダメージは与えられないし、武装は引き出せないということである。いかに攻撃力やレベルが高くてもノーダメージだ。
けれども、PCに割り振られたステータスはそれなりの反映をされている。貧弱な防御力しか持っていない呪紋使いが大柄で武装を固めた重斧使いに体当たりをされれば、それなりによろけたり、転んだりもする。
そして、この双剣士ハイド。小柄な外装なため質量判定の度数は高くないのだが、そのステータス修正がかなりやばい。
何故ならば彼のレベルは上限値である99――いわゆるカウンターストップの最高レベル。巨体を誇る鎧超将軍などを素手で撲殺出来るぐらいにステータスが高い。
しかも長年のプレイでコツコツとドーピング行為(ステータスアップアイテムの使用)などで双剣士の貧弱なはずの防御力はもちろん、攻撃力だって職業中最大攻撃力を誇る重槍使いにも劣らない。
Q:そんな彼の手加減なしのツッコミを受けた呪紋使いの少女はどうなるでしょう?
A:派手に吹き飛びます。
「あ」
よろけるどころかどこぞの聖なる闘士漫画みたいな描写で吹き飛んで、そのまま河に着水。バチャーンと丁寧処理この上ない水しぶきが上がる。
「……」
それを思わず呆然と見つめて――数秒後はっと気付いたようにハイドが目を開いた。
飛び込んだ少女が浮かび上がってこない。
プクプクとした泡はもちろん、緩やか~に流れていく川の水流のエフェクトに何の変化もない。
嫌な予感MAX。
「おぉおーい!!」
ゲームの中だということを忘れる勢いで、ハイドが河に飛び込んだ。
世界初ツッコミによる撲殺殺人者という前科持ちにならないために。
過程を省いて、結論を告げるとハイドは無事に前科から逃れることが出来た。
ジャブジャブと水面を切りながら水から上がるハイドとそれに首根っこを掴まれた少女の姿がその証拠である。
「あー、綺麗だったね。水の中」
「河の中でのんびりと景色観察出来るその根性が羨ましいよ、まったく」
ケラケラと楽しげに笑いながら告げる呪紋使いの少女に、ハイドは調子を崩したように肩を落とし、同時にブルリと身体を震わせる。"まるで寒がっているかのように"。
「水の中に叩き落す原因の俺が言う台詞じゃないんだろうけど、心配するからさっさと出てこいよなぁ。あー、寿命が軽く縮まった」
「なるほど。未来が真っ暗になったと」
「うん。これで前科持ちになるかと思って目の前が真っ暗に……って反省してねえなお前?!」
クリクリと面白そうに向けられる少女の目線に、ハイドが再び突っ込もうとして――バシッともう片方の手で制止する。
(ま、まずい)
必死で突っ込もうとする己の心を自制し、ジワリと見えないところで汗を流しながら、ハイドは思った。
(ここで突っ込んだらさっきの二の舞になる……いや、それ以前に――本来ボケ担当の俺がツッコミ担当になってどうする!?)
という意味の判らない決意をしつつ、何故か幻影で「へい! ツッコミカモン!!」と言っているのが見える少女に対し、ハイドは目を向けた。
「あのさ」
「なに?」
「さっきの言葉って……どういう意味だ?」
「いみ?」
返事と同時に少女がくいっと右手に持つ手を曲げる。
「あ。間違えた」
「?」
やや遅れて少女が首を傾げた。
(モーションコマンドに慣れてないんだな)
その不器用な動作にハイドがそう推測していると、少女が口を開いた。
「いみって?」
「いや、いきなりメールアドレスを交換しに来たのって……もしかしてその誤解でやってきたのか?」
孤高という二つ名を持つPC。
彼は誰のメンバーアドレスも持っていないらしい。つまり友達がいない淋しい人だ。なら、私が友達になってやろう。
そういうことなのだろうか? とハイドは推測し。
「うん。そうなる、のかな?」
「何故疑問系? あとちなみに言っておくけど、俺友人居ないわけじゃないから。決して一人淋しくソロプレイをやっている暗い奴とかそういうんじゃないから。わかった? OK?」
一見すると友人の少ない男の見栄っ張りとか言い訳のように思えるが、実際にはこの言葉は間違っていない。
メンバーアドレスを保有していなくても、彼には沢山の友人がいるし、仲間と呼べる者もいる。むしろ一般的なプレイヤーよりも交流関係が広い方だろう。ただメンバーアドレスを持っていないだけで。
「うん、わかった」
「ならよし」
誤解が解けてガッツポーズするハイド。
それに畳み掛けるように、少女が口を開いた。
「それじゃあ本来の用件を伝えるね」
「本来?」
「そう。冒険に連れてってくれないかな?」
くいっと首を捻って少女が伝えた言葉に、ハイドがは? と目を丸くする。
「えーと、初心者のサポートしてるって聞いてたんだけど、違う?」
「あ、そうだけど」
少女の言葉に、ハイドが頷く。
ゲーム初心者のサポートや護衛は何度も行っており、親切な上級プレイヤーとしてハイドは有名であった。
ここまで奇妙な展開は早々無いが、初心者がゲームに慣れるまでのインストラクターはハイド自身の趣味もあって積極的に行ってきた。
というか、最近はそれぐらいしかやることがない。という方が正しいのだろう。
「んで? アンタはどんなところに行きたいんだ? レベル上げに適したエリア? それとも高価なアイテムのあるエリアか? みたとこ呪紋使いみたいだから、装飾品を落とすモンスターの出るエリアに行ったほうがいいと思うけど……」
脳内に記憶している初心者用のエリアワードを幾つか反芻しながらハイドが告げるが、それに少女は少しの間を取ってからこう言った。
「風景の綺麗なエリア」
「え?」
「風景の綺麗なエリアに連れて行って欲しいの。アイテムとかレベル上げとかそういうのは二の次でいいから」
少女が告げた内容に、ハイドは少し首を傾げた。
「……風景の綺麗なエリアねぇ」
その奇妙な要望に、ハイドは顎に手を当てて少し考える素振りをすると。
「ないの?」
少女がハイドを見つめてくる。
まるで捨てられそうになっている子犬のような目だとなんとなく思った。
「いや、一応心当たりはあるけど。それでいいのか?」
「いいよ!」
「ほうか」
少女が喜ぶモーションを身ながら、ハイドはよしっと自分に気合を入れる。
そして、出発しようとして不意にハイドは気付いた。
「そういや、さ」
「?」
「アンタ……名前は?」
ハイドはそう尋ねる。
そして、少女は告げた。
「――"スワロウテイル"」
ハイドにとっておそらく生涯忘れることのないだろう名前を。
「スワロウテイル? 燕のしっぽ?」
変な名前だと顔面一杯に表現するハイドに、スワロウテイルがくすりと笑ったように思えた。
「違うよ。スワロウテイルは揚羽蝶の英訳」
「ふーん。ならアゲハちゃんでいいか? スワロウテイルって言いづらいし……」
「いいよ。知り合いも皆そう呼ぶから」
そう告げてスワロウテイル――【アゲハ】は微笑んだ。
そして。
最初の冒険。ハイドとアゲハは共に行ったエリアでダンジョンに潜ることなく、引き上げた。
理由は二つ。
アゲハはフィールドの背景だけで満足し、暗く不気味なダンジョンに潜ることを望まなかったからだ。
そして、もう一つ。アゲハのレベルが低すぎることと初心者だからしょうがないのだろうが、あまりバトルが得意ではなかったためだ。
モンスターに襲われればなんとか距離を取り呪紋を撃とうとするのだが、その一連の動作は遅く、ハイドがサポートしなければ多分一方的にボコボコにされてしまうぐらいだった。
そのためアゲハと共にパーティを組んだ時はハイドが前面に出て、アゲハはちょびっとずつ削れるハイドのHPを回復するぐらいだった。
なんとかフィールドの魔法陣を掃討し、それからハイドはアゲハの風景鑑賞に付き合った。というよりも付き合わされたというほうが正しいかもしれない。
様々な質問をしてくるアゲハに閉口しながらも、悪意はないということを悟ってハイドはそれに付き合って色々な雑談をした。終いには雑談しながらモンスターまで殴り倒した。
そんなこんなで夜も更け、リアルの時間で午後9時ごろにアゲハは名残押しそうにログアウトした。
それを見届けると、ハイドはマク・アヌにある自分のホームに戻った。
そして。
「メンバーアドレス交換しない?」
「何故第一声がそれなんだ?」
リアル時間で真昼頃、マク・アヌのアイテムショップの前でハイドはそう呟いた。
目の前に立つスワロウテイルと名乗った少女に向かって、胡乱げな目を向ける。
「え? せっかくの再会を祝して交換するのもいいかなって……」
「却下」
「ひどい」
ズガーンという効果音が似合いそうなぐらいに落ち込んだ様子をモーションを見せるアゲハに、ハイドは手早く買い物を済ませると、向き直してため息を付いた。
「あーのーな」
「うん」
「俺のポリシー知ってる?」
「俺は誰のメンバーアドレスも持たないし、渡さない。でしょ?」
「そ。だから、メンバーアドレスは交換しない、OK?」
肩を竦めてそう告げるハイドに、アゲハは呟いた。
「……なんで交換しないの?」
「そういうロールだからだ」
「……淋しくないの?」
淋しい?
(いや、実際メンバーアドレスなくても連絡つくしなぁ)
ハイドはそういう感情を覚えたことはない。あったとしても目を逸らし、BBSの確認や、モンスターとの鍛錬などで時間を潰し続けている。
それにこの世界には多数のPCがいるし、淋しいと感じるほうがおかしいと思う。
そう告げると、アゲハは少し考えたように沈黙して。
「じゃ、いいや。ハイド、折角あったんだから一緒に冒険しよ」
「あー、いいよ。指定は?」
「風景の綺麗な場所!」
「了解」
そうして、その日もハイドはアゲハは一緒に冒険して、一日を潰した。
それからハイドの日常に、アゲハという少女が加わることになった。というか押しかけてくるようになったほうというべきか。
数日単位でハイドの前にアゲハは現われた。ルートタウンで歩いているところを偶然遭遇したり、あるいはBBSの目撃情報を辿ってきたのかエリアで冒険しているハイドの前にモンスターを引き連れて逃げているアゲハが現われて、思わず一緒にモンスターから逃げ回ったりと。
何の因果か、ハイドはアゲハという少女に気に入られたらしい。
そして、ハイドに付き従う(ようにみえる)アゲハのことが噂になるのも時間の問題であって。
それを確認しにきた知り合いや、たまたまハイドに会いに来たPCたちとアゲハが知り合うのは当然のことだった。
蒼天の二つ名を持つPCが会いに来た時にはハイドのほうが驚くほどビックリしていて、「そうか。遂に春が来たのだな」などと何か変な勘違いをしようとしていたのでハイドは拳で修正し、他にも勘違いをしたやつがいたのでその度に拳で修正した。
死の恐怖と呼ばれるPCとエリアで遭遇した時などは「メンバーアドレス。ちょ~だい?」 「はい!」 などと女性のメンバーアドレス収集が趣味なはずの彼が逆に面を喰らった様子でアゲハが了承したり。
とある漫才コンビな剣士と重槍使いの二人のコントにハイドが沈黙している横で、楽しげに爆笑するアゲハ。
そうしているうちにアゲハはハイドの知り合いのPCたちとも仲良くなり、ハイドと共に過ごす時間が少なくなったもの、彼女は誰よりも多くハイドの前に現れる。
顔も見ない日があると少しだけ淋しく感じるほどに。
そして、そんな日々が数ヶ月ほど進んだある日。
その日が来たのだ。
残酷な運命の終焉が。
少年と少女の時の宴が。
――終わる時。